コイゴコロ2(前編)
「頼みがあるんだが、」
いつも副会長であるに任せてテニス部へ行ったきりの生徒会長、跡部景吾がそう切り出したのは、珍しく生徒会室に来ていたときのことだった。会計、書記はの用事ですでに席を外していて、室内にはふたりきりだ。 「……やっぱり、真面目に仕事をするのが目的じゃなかったんだな」 少しだけ非難するような口調で、が返す。 「お前だって、解ってたからあいつらに用をいいつけたんだろうが」 必要な仕事ではあったが、いますぐ、しかもふたり同時に、行ってもらう必要があるものではなかった。でもあえてそれを頼んだの真意には、跡部でなくとも言いつけられたふたりも気づいているだろう。なにしろ、この生徒会のメンバーは跡部が揃えたのだから。 「違ったらいいなぁとは思ってたんだけどね」 言いながら、は扉に近づき内鍵をかける。生徒会以外の人間が、知らずに開けようとする場合を考慮してだ。どうやら跡部の頼みというのは、誰にも聞かれたくないもののようだから。 「じゃあ、聞くだけ聞こうか」 いつもは空席である生徒会長の席へ座る跡部の、その横にある副会長の机の上に、は寄りかかるようにして座った。これはプライベートなんだろう?という意識の現われだ。 「引き受けてくれないのか?」 「内容による」 頼むという立場であるはずの跡部に、下手に出るような態度は一切見られない。確かに下手に出てお願いするなどというのが跡部に似合いもしないし、できないだろうというのはにも分かってはいたのだが――いつもにも増したこの不敵な態度に、はなにやらイヤなものを感じる。 その予感通り、跡部は嫌味なほど楽しげな笑顔でそれを告げた。 「――俺の婚約者になれ」 「却下。話はそれだけか、出て行け」 は身体を起してスタスタと扉へ向かう。もちろん鍵を開けるためだ。会長は跡部かもしれないが、この部屋で仕事をしているのはのほうなのだから、いくら腹立たしくても自分が出て行くつもりはない。 「おい、待てよ! なんで婚約者なんだとか、驚いたりしねぇのか?」 バンッと机を叩く音がする。仕方なく振り返ると、跡部が机の上に身を乗り出すようにして立ち上がっていた。多少は焦っているようなその姿に、は軽くため息をついて言ってやった。 「大方――断りきれない見合いの話でも来て、それをつぶして欲しいんだろう? 女に頼むとのちのち誤解を生むことにもなりかねないから、面倒も後腐れもないぼくを身代わりにたてようと考えた――違うか?」 一息でそれだけ言ってやると、跡部が驚いたように目を見開いてから、ニヤリと笑う。 「それだけ解ってるなら――引き受けろよ。お前なら女のカッコすりゃ、そこいらの女より充分イケてるからな」 「どうして? なんでぼくが跡部のために女装までしなくちゃいけないんだ? ぼくには――」 そこまでする義理はない――と言おうとしたの言葉を、跡部が遮った。 「鳳って恋人がいるのに、か?」 会長の机の前にいた跡部がゆっくりと近づいてくる――立ち尽くして動けないのもとへ。 「“借り”あんだよな? お前、俺様に。まぁ、いいぜ。女は面倒だが、金出せばなんでもやるプロがいないわけじゃねぇしな。ま、随分金使うことにはなるだろうから、ストレスも溜まるが、部活はいいストレスの発散になるしなぁ」 の前に立った跡部は、ニヤニヤと意地の悪い笑みを見せながら、を見下ろす。 「……卑怯だ」 苦し紛れにそう言いながら跡部を睨みつけても、跡部の優勢は変わらない。 「弱みなんか持つ、お前が悪い」 (弱み――? 鳳が、ぼくの――?) 違う、跡部は解っていない。けれど、それこそ、跡部に知られてはいけない。 「……鳳には、言うなよ」 仕方なく、は承諾した。 「言わなくていいのか? 休みはしばらく俺に付き合ってもらうことになるぞ。放課後もな」 跡部が手を焼いているほどの相手だ。もただ着飾って跡部の隣に立っていればいいというわけにはいかないのだろう。 着飾る――? 自分がこれからしなければならないことを考えると、それだけでどっと疲れてくる。 「ぼくの口から言う。お前は黙ってろ」 跡部を追い出すように生徒会室から押し出し、閉めた扉には寄りかかった。コツコツと足音が遠ざかっていくのが聞こえる。いつものようにテニス部へ向かったのだろう――鳳もいる、テニス部に。 跡部はまだ、気づいてはいない。いや、思い違いをしている。 鳳とは、いわゆる“恋人同士”には、なっていない。 二週間前――が跡部と間違えられて連れ去られ、助け出された病院で、病室まで見舞いに来れたのは跡部を除けば鳳だけだった。 を心配する生徒は多く、が一日休んだだけでどうしたのかという騒ぎになってしまったので、入院している事実は隠せなかったのだが、その怪我が大したことはないという以上のことは跡部が漏らさなかった。だから事情も入院先も知っている鳳だけが見舞いに来れたのである。 (さっさとお前のモンにしちまえよ――) 跡部にそう言われて作ってもらったふたりだけの時間。学年も違い接点の少ない鳳と、ふたりきりで過ごせる機会は、そうそうないのだ。 『俺は――先輩が好きです!』 唐突にされた昨夜の告白に、は答えることができなかった。 『ありがとう、ぼくもずっと好きだったんだ』と、鳳が来たら告白しようと思っていたのだが――入ってくるなりそれを言うわけにもいかず、「具合、どうですか?」「もう大丈夫だよ、明日には退院できるらしいし」という当たり障りのない会話から始まった。 ずっと走ってきたのだろうか――鳳の額にはうっすらと汗が滲んでいた。は、跡部が見舞いと称して置いていったフルーツジュースの場所を指し示す。遠慮する鳳に「ぼくも飲みたいから、一緒に飲もう」と言うと、鳳は「じゃあ遠慮なく俺もいただきます」と、プルタブまで開けて、に差し出してくれた。 「悔しくて――俺昨日はホント眠れなかったです。あと少し、早く門に着いていれば、先輩がこんな目に合うのを阻止できたんだと思うと――」 しばらくして言った鳳の言葉を、は聞き返した。 「え? お前、あのときあの場所にいたのか?」 「ええ。先輩が先を歩いているのが見えて――車へ乗り込む前に追いつきたくて走ったんですけど……」 そういえば跡部の携帯に電話したはずなのに鳳が出たことを、あのときは不思議に思ったのになぜだったのか聞くのを忘れていた――嬉しくて。鳳と跡部が一緒にいることも、考えれば不自然なことだったのに、大した疑問も抱かなかった。跡部にの気持ちがバレているのは知っていたから――跡部が気を利かせたのかぐらいにしか、思っていなかった。だからすっかり“借り”を作ったと思っていたのだけれど。 失敗したかな――あの不敵に笑う嫌味なツラを思い出し、は思う。けれどすぐに頭の中からかき消した。せっかくの貴重な時間に、余計なことは考えたくない。 「もう済んでしまったことをくよくよ考えるな。ぼくは無事だ――それでいいじゃないか」 は手を伸ばして、不服そうにうな垂れている鳳の、少しクセのある日向のような髪をポンポンと優しく叩いた。くすぐったそうに笑って、鳳が顔を上げる。 「はい――あの、明日の退院、俺、付き添いましょうか? 荷物とか持ちますから!」 「それは――その、たぶん跡部が車を出してくれることになっていて――」 跡部に両親に会って欲しいと言われているのだ。直接侘びに来るといわれたのだが、跡部の両親がに迷惑をかけたわけではないのだからと断った。けれど一度会いたいと言われてしまえば――入院費用を出してもらったこともお礼を言っておきたかったので、断れない。 見る見るうちにしゅんとしてしまう鳳に、は慌てて告げる。 「あの、鳳。お願いがあるんだが――」 「はい! なんでも言ってください!」 「月曜日から、登校しようと思ってるんだが――登校だけでも、一緒に行ってくれないか? あ、いや、練習があるんだよな。下校だけでもいいから」 いまさら登下校に危険が付きまとうとは思えなかったが、攫われたことを阻止できなかったことを悔やんでいるようだから、一度、の登下校につき合わせて無事に過ごせれば、鳳の後悔も薄くなるかもしれないと、は考えた。 「もちろんです! 登校も下校も、これからはずっと俺が一緒で先輩のこと、守りますから!」 「ありがとう――」 目の前で嬉しそうに微笑む鳳に、は言おうとした。 ぼくを見てくれる真っ直ぐな瞳、真っ直ぐな気持ちに、ずっと惹かれていたと。 けれど――言えなかった。 鳳はが好きだと言ってくれた――その気持ちを疑っているわけではない。自惚れではなく――跡部に言われるまで確信はもてなかったけれど――鳳が自分に好意を持ってくれているのは気づいていた。だから、どんな遠くからでもの姿を見つけると走ってきて挨拶をしてくれたのだと思うし、笑顔を見せてくれていたのだと思う。 けれどそれは、傷の手当てをしたことに恩を感じていたからで――恋愛感情の“好き”とは違う、“親しみ”だと、は思っていた。だから鳳が好きなのは――あんなに一生懸命になっているダブルスパートナーである宍戸だと思っていたのだ。 それが、違うのだとしても。 鳳は、とても真面目で真っ直ぐな人間だ。 今回も――防ぐことができなかった責任感が、鳳に『を守りたい』という気持ちを生じさせているのではないと、誰が言える? その証拠に、鳳はのことを好きだと言ったが、の気持ちを聞こうとはこれっぽっちもしないではないか。 (少し、時間を置いたほうがいいのかもしれない――) は言おうとした。けれどその言葉はの心の奥にもう一度しまわれた。 「――よろしくな、鳳」 「はい! 先輩!」 無理矢理に微笑んだに、鳳が眩しいくらいの笑顔で答えた。 いつまでも感傷に浸っていることなどはなく、跡部を追い出した生徒会室で、は再び仕事を片付け始めていた。程なく、書記と会計のふたりも用事を終え戻ってきたが、会長の姿がなくなっていることに、余計な詮索をしたりはしなかった。 その後も必要以上の会話がされることのなかった室内に、コンコンと控え目なノックの音が響いた。 「もう、こんな時間か……」 時計を見上げて、が呟く。 「気づかなくてすまなかったな。じゃあ、帰ろうか」 の言葉に、ほかのふたりも頷き、帰り支度を始める。 「ああ――入っていいぞ」 扉に向かってが声をかけると、静かに扉を開け「失礼します」と言いながら入ってきたのは、鳳である。に言われた通り、退院後のの送り迎えを鳳は続けていた。ただし、朝練のある朝の迎えだけはなしだ。でなければ自分も朝練の時間に登校するとが言い張ったので、鳳も不服そうではあったが、承知した。 「もう、いいんですか? じゃあ行きましょうか」 鳳がそう言いながら自然との鞄を持つ。 「鳳、鞄くらい自分で――」 「ダメですよ、まだ骨折が完全に治ったわけじゃないんですから。重いもの持たないように言われてますよね?」 「でも――」 鞄くらい大した重さではないし、第一ここに来るまでだって自分で持ってきているのだからと言おうとして――室内にいる他のふたりの視線に気づく。チラリと視線をやると彼らは慌てて逸らしてしまったが、その目が笑っていたのに気づかないではない。けれど、笑いたくなるのも解る――ここのところずっと、このやりとりは繰り返されているのだから。 「……じゃあ、頼む」 最後にはいつも言わされてしまうセリフを早々に口にして、はふたりに戸締りを頼んで、生徒会室を後にした。 鳳は――なんとの送り迎えのために、自転車を用意した。 の自宅までは二駅ほどの距離なのだが、満員電車でが押されたりしたら困るというのが、鳳の主張だった。足腰の鍛錬にもなりますからと笑う鳳を見ながら、が考えていたのは、これで鳳に堂々と抱きつくことができるということだったと知ったら、鳳はなんて思うのだろうか。 「しっかり掴まってくださいね」 鳳に声をかけられ、鳳の腰に腕を伸ばす。広い背中にそのままもたれかかりたくなる衝動を抑えるのはいつものことだ。 至福の時間――そう、これだけで、充分に幸せだろう。 「なぁ、鳳――」 鳳の顔を見ながらでは言いにくい。自転車を走らせているその背中のシャツをギュッと握り締めては告げた。 「跡部の用事を引き受けたんだ。しばらく、送り迎えはいいから」 |