コイゴコロ2(中編)




 その日の放課後、生徒会の用事を終えたは書類を片付け始めた。これから正門前に停めてあるはずの跡部の車へと向かわなければならない。部活が終わったその足で、生徒会室まで走ってきた人物が扉をノックすることは、なくなってしまったのだから。
『しばらく、送り迎えはいいから』
 がそう言ったとき、すぐに鳳は自転車を止めた。鳳が振り返るのを待たずに、は喋りはじめた。
「跡部に、ちょっと頼まれたことがあるんだが、少しややこしいことなんだ。放課後はアイツに付き合わないといけなくなった。それで、だから――すぐ終わることだとは思うんだが、それも含めて、明日の放課後から話合おうと思ってる」
 後ろめたさを隠すようには一息で告げた。自転車に乗ったまま振り返り、を見下ろしている鳳の目が見れない。明らかに不審すぎる態度だ。
 女装しなきゃならないことは、厭なことだとはいえ、跡部に仕方なく協力することなのだからと割り切ったつもりだ。けれどなぜ、それを鳳に言えないのだろう?
「そう、ですか――解りました。じゃあ、それが終わったら、また一緒に帰れますか?」
 何も聞こうとはせずにそう答えた鳳の、その言葉に急に涙が出そうになった。
「いいの、か――?」
 が思い切って目線を上げると、鳳が笑った。
「もちろんです」
 鳳の笑顔に、はそれ以上なにも言えなくなった。黙って、鳳の背中に額を押し付ける。
「じゃあ、行きますよ」
 再びゆっくりと、自転車は走り出した。
(言えなかったんじゃない。言わなかったんだ――)
 これからもこうして、鳳と一緒に帰りたい。だから、鳳からそう言い出してくれるように言葉を選んでしまったのだ。
(ぼくは、ズルい――)
 鳳の気持ちを錯覚じゃないかと疑いながら、それでも傍に繋ぎとめておこうとしている。なによりも素直な鳳を好きだといいながら、その素直さを利用している。
(こんなぼくが、鳳のことを好きでいていいんだろうか……?)
 なによりも嬉しかったこの場所が、いつの間にか、なによりも苦しい場所へと変わっていた。


「ほら、これが資料だ」
 連れてこられた跡部の部屋で、探偵に調べさせたというその女性の報告書を差し出された。
 跡部の父親がいま取り掛かっている仕事の、取引先の令嬢なのだ。どこで跡部のことを見たのか知らないが、彼女が跡部に一目惚れし、それを両親に話したらしい。向こうの女性もまだ十四歳だということで、正式な見合いというわけではなく、とりあえず一度両家で食事を、というセッティングが一週間後になされているそうだ。
「そこに乗り込んで来い」
「そんなバカなことできるか!」
 はページを捲る手を止めて跡部を睨みつけた。
「とにかく、その気があるのは彼女だけなんだろう? だったら跡部が彼女に嫌われることをすればいいじゃないか」
 の言葉に、跡部はゆったりとした仕草での向かいのソファーに腰掛けると、ニヤリと笑った。
「俺様を好きにならねぇ女なんかいねえよ」
 呆れて物が言えないというのはまさにこのことだ。
 こんなにまで自信過剰だといっそ清々しい――などと思えるはずもなく、にとっては、理解不能としか思えなかった。
「本当にやる気があるのか? ぼくはお前のご両親とも面識があるんだぞ。そんなことしたってすぐにばれるじゃないか」
「向こうにお前のことを調べられても困るしな。冗談だ、バーカ」
 ククッと笑いはじめた跡部の姿を見ても、はからかわれたと怒る気にはならなかった。むしろ、跡部にもちゃんとまともな思考能力があったのかと感心したくらいだ。ある意味、のほうがたちが悪いのかもしれない。
「それで、冗談でない考えは?」
「お前と俺で派手なデートでもしてれば、嫌でもそいつの耳に入るだろうさ」
 そういえば話を聞かされたとき、『しばらく付き合ってもらうことになる』と言っていたのだから、やはり最初からそれを考えていたに違いない。確かに、一部のタイプには有効な手段だと思うが。
「お前に女がいるって聞いたからって諦めるようなタイプは、無理矢理見合い仕組んだりしないと思うがな」
「じゃあ――そいつの目の前で見せ付けてやるか?」
 跡部の提案に、は思考をめぐらせる。
「それは――いいかもしれないな」
 この資料によると、彼女はハーフだ。しかも小学校まではイギリスで暮らしている。跡部がをエスコートするのではなくメイドのように扱っていたら、フェミニストでないと知って幻滅するのではないだろうか?
 跡部がどう思っていようと跡部の勝手だが、この話を潰したいなら、詰まるところ彼女が跡部に抱いている好意をなくさせることを考えなくてはいけないのだ。
 がそう話すと、跡部は不機嫌そうに眉を寄せた。
「俺の評判が落ちるじゃねぇか」
「そのくらいは覚悟しろ。後日、秘書だとでも言えばいいだろ?」
 実際、このままいけばそうなるはずだ――というのは、どちらからも口にはしなかったが同じく思っていた。
「じゃあ早速、そいつの行きそうな場所を調べさせるか」
「おい、氷帝の生徒がいなそうな場所にしろよ」
「そうだな、そのくらいは譲歩してやる」
 何様のつもりだと言い返しても無駄なことは、 にも理解したくないが解っていた。


 三日後の夕方のこと。コンサートホールの長い階段が広がる玄関口の前に、一台のリムジンが停車する。開けられた扉から降りてきたのは、タキシード姿の跡部だった。
 跡部は降りたあと、車内へと手を伸ばした。
 その手を取り、優雅に降りてきたのは、着物姿の美少女――――
 紺地の友禅には赤や金の色とりどりの手毬が描かれており、若い女性が着るには地味な色である紺だが、金色の帯に赤い帯止めでとても華やかな印象を与えている。 肩よりも長い真っ直ぐな黒髪は帯よりも少し上で切りそろえられており、両サイドだけが緩くアップにされていて、金色のリボンで結われていた。
 人気のドイツ人バイオリニストがソロを弾くこのコンサートは、外国人の客も多く、若い跡部が連れた振袖姿の美少女がロビーに入ると、かなりの人目を引いた。 もちろんこの美少女の正体は――髪はもちろんカツラだ。
「赤とか派手な着物のほうが目立つと思ったが、こんな地味な色でも目立つもんだな」
「着物は全体のバランスが大事なんだよ」
 このコンサートに彼女が行くという情報を仕入れ、跡部も切符を手配したのだが、当日が着る服として、跡部は当初、赤いカクテルドレスを用意していた。もちろんこれにはが大反対して、着物姿となったのだ。着物なら、体型も誤魔化せるし、ハイヒールを履かなくて済むのだから。
「ぼくは色が白いほうだから、どうしても明るい色は――」
。“ぼく”は違うだろ?」
 ロビーの中心あたりで立ち止まったふたりは、寄り添って小声で話していたから、周囲の人間でもよほど聞き耳をたてていないとふたりの会話は聞き取れないだろうが、すでに作戦は始まっている――気を抜くことはできない。
「すみません、わたしには、明るい色は似合わないんです――景吾さん」
 自分が悪かったのを認め口調を改めたは、それを強調するように、いまだけはそう呼ばなければいけない呼び方で、跡部を呼んだ。
「似合うと思うんだがな。折角用意したドレスを無駄にすることもないだろう?」
「じゃあ景吾さんが着られたらどうです?」
 笑顔で告げたの言葉に、跡部がを睨みつける。もちろんそんな視線にが臆することはなく微笑んだままだったが、一瞬だけその雰囲気を変えて、囁いた。
「いたぞ」
 は目線だけを動かして、跡部の背後に彼女がいることを知らせる。
「俺たちはふたりともあの女のことは知らないことになってるんだからな。目線を合わすなよ」
 一瞬だけの視界に入った彼女は、信じられないものを見る目でこちらを凝視していたから、気づかないほうが難しいのかもしれないと思いながら、はそ知らぬ顔で微笑を浮かべていた。
「はいはい。じゃあとりあえず楽しく談笑しましょうか?」
 は跡部の腕を取って、彼女のほうから跡部の表情――横顔が見れる位置へとさりげなく向きを変えさせた。
「アーン? もっと楽しそうにしろよ」
 確かに楽しげな笑みを浮かべている跡部に、も悪乗りする。
「じゃあこういうのはどうだ? 屈め――」
 は跡部の袖を引いて屈むようにせがむフリをする。それに答えてすこし屈んだ跡部の耳元に、は軽く背伸びをして手を添えて顔を近づけた。
 仲睦まじい恋人同士の囁きのような、そんな態度で、は跡部の耳元に囁いたのは、「身体離したらもっと笑えよ」というだけものだったのだが。
 言葉通り、身体を離したは、跡部の顔を覗き込みながら、いかにも楽しそうに微笑んだ。跡部の背後にいる彼女から、その姿はしっかりと見えていただろう。そしてそのに、微笑み返す跡部の姿も。
 どうやらその趣向は跡部も気に入ったようだ。普通に会話をしながら、合間に彼女の話を振ってくるときは、跡部もの耳元に唇を寄せて囁いた。周囲に聞かれる心配はない上に、まるで、ふたりだけの世界を作っている仲のいい恋人同士に自然と見えてくれるというわけだった。
 彼女はまだ正式に跡部に紹介されていない。知り合ってもいない人物にいきなり近づいてきて話すことはできないということを逆手にとって、ふたりは彼女が入り込めないと諦めるように、楽しげなフリの会話を続けた。
 そんなふたりのもとへ、人ごみを抜け、ひとりの人物が近づいていたことに、彼女のいる位置だけを気にしていた跡部もも気がつかなかった。
「こんばんは。こんなところでお会いするとは思ってませんでしたよ、跡部部長」
 の隣で、跡部に向かって頭を下げたのは。
「鳳……どうしてここに?」
 あまりの出来事に、口にしてしまってからはしまったと気づいたが、もう遅い。跡部しか見ていなかった鳳の視線が、隣に立つに向けられた。
「え……? あの……あ……え……? もしかして……そんな――、先輩?」