君を、見ない(前編)




 氷帝学園といえばそれなりに裕福な家柄の子弟が集まっていることで知られている。そのため校則での締め付けがとても少ない。指定の制服さえ着ていれば、ブランド物の鞄を使おうが、アクセサリーをつけていようが、髪を染めていようが、化粧をしていようが、注意されることはないのである。
 だからこそ氷帝にはおのおの自立した個性的な生徒が多く、そのなかでも特に注目される存在が、部員数200人を誇るテニス部の、そのレギュラーに選ばれている生徒である。
 そのレギュラー陣のなかで、部長に次ぐ実力を持ち、天才と評される忍足侑士がいるクラスでは、当然のように忍足がクラスの中心にいた。
 もちろんクラスの全員が忍足と親しいというのではなく、なにかと話題の中心は忍足が攫うということなのだが、その忍足に対して表立ってライバル心や嫉妬心をむき出しにする生徒もいなかった。三年にもなれば、氷帝の校風にも慣れ、自立している生徒がほとんどだからだ。
 騒がしいのが苦手なも、流石に三年もこの学校に通っていては、同じ学年のテニス部レギュラーの顔と名前くらいは知っていた。けれど積極的に関わりあいになりたいとは思っていなかったから、忍足のことも、ただの同じクラスにいる生徒のひとりとしか認識していなかった。
 クラスメイトになって二週間経った、あのときまでは。


 その日の放課後、いつものようにダブルスパートナーである向日岳人が忍足のことを迎えに来ていた。そんな光景を視界の隅にいれながら、部活に所属していないは、少し遅れて教室を出た。
 階段を降りようとしたとき、下のほうから会話が聞こえてきた。聞くつもりもなく耳に入ってきたそれは、岳人と忍足の声だった。
「侑士のクラスさ、侑士のちっこいのみたいなヤツがいるな」
「ああ、やな?」
 忍足の口から発せられた自分と同じ名字に、は身体が止まった。自分のことではないと思ったのもつかの間、『』は、あのクラスには自分ひとりしかいないことに気づく。
「あんなダテ眼鏡似合うてへんし、髪ももっと短くしたらええのに」
 は息を飲んだ。ダテ眼鏡だと気づかれているとは思わなかったし、それ以前に、忍足が自分のことを知っている――名前まで口にできるほど――だなんて。
「侑士に憧れてんじゃねーの?」
「せやな。俺、ええ男やし」
 階段に響いた忍足の笑い声に、はその場から駆け出していた。

     *     *     *

「侑士のクラス、侑士のちっこいのみたいなヤツがいるな」
 岳人がそう言ってきたとき、忍足にはそれが誰のことかすぐに解った。
「ああ、やな?」
 岳人よりはおっきいのになぁと心のなかで突っ込みつつ、その名前を口にした。
 忍足に似ているというより、ダテ眼鏡をかけ、髪を伸ばしているというだけのことだとは思うのだが、はっきり言って彼にそれは似合っていないと忍足は思うのだ。
「せやな。俺、ええ男やし」
 忍足に憧れてるのかもという岳人の言葉にすかさずのって笑いながら、忍足はそんな理由でないだろうことも承知していた。
「でもホンマ、あの眼鏡と髪型はあかんな。アイツめっちゃ綺麗な顔しとるのに……勿体無いわ」
「ええっ、そうなの?」
 驚いている岳人に、忍足は得意気に教えてみせる。
「体育の着替えのとき見たんや。眼鏡ひとつでああも印象の変わるヤツも珍しいわ」
(違う、眼鏡だけやないな――)
 着替えのときに偶然が眼鏡を外した姿を見てから、それとなく忍足はのことを観察していた。だから眼鏡がダテだということにも気づいていたし、印象の変わる理由が、の伏し目がちなその瞳にあることにも、最近になってようやく気づいた。伏せられた瞳のその長い睫を、素っ気ない眼鏡のフレームが隠してしまうのだ。
「髪型はともかく、あのダテ眼鏡くらい外させたいわ。髪型は――アレ、わざとやろしな」
 観察していたおかげで、のことをいろいろ気づけた。少し見ただけでは解らないことを。たぶん気づいているのは、クラスで自分だけだろうと思うと、頬が自然と緩む。
「なんだか解んねーけど、思い出し笑いなんて――やらしーぞ、侑士!」
「おう、俺はやらしー男やしなぁ」
 答えてから忍足は、ニヤリと笑って呟いた。
「あの眼鏡、俺が外させたる」

     *     *     *

 気づいたとき、は校舎の端まで走りきっていた。
 荒い息を整えようと、壁に寄りかかって目を閉じた途端、先ほど聞いたばかりの会話が蘇る。
『侑士のちっこいのみたいなヤツ――』
『ダテ眼鏡似合うてへん――』
『侑士に憧れて――』
『俺、ええ男やし――』
(なんで、なんで、なんで――!)
 はぎゅっと掌を握り締めた。
 なぜ自分があんなことを言われなくてはいけないのか。
『侑士に憧れてんじゃねーの?』
 どうしたらそんなことを思いつくのか。
『侑士のちっこいのみたいな――』
 壁に寄りかかったまま、は顔を上げる。向かいの壁にはめ込まれた窓ガラスに、ぼんやりと映る自分の顔。長めの前髪、頬まで伸びた両サイドの髪、ダテ眼鏡――見ていられなくて、は顔を背けた。
 自分も、そして他人も見ないようにしているうちになってしまったこの姿のどこが、あの忍足と似ているというのか。
 いや、真似しようとして失敗しているというように見えるのだろうか。
 だったらいっそのこと眼鏡も外してしまって、髪も昔のように切ってしまえばいい。
 は眼鏡に手をかけて――けれど、その手は止まった。
(どうしてぼくが、そんなこと気にしなくちゃいけない…?)
 忍足の真似をしていると思われようが、関係ない。ただ一年間、同じ空間にいるだけの人間を気にする必要はない。なにを言われても、どう思われても、が望んだことではなくても、勝手にそう思うほうが悪いのだ。
(帰ろう――)
 は、一気に走ってきた廊下をゆっくりと戻り始めた。
(ぼくには、関係ない。忍足侑士なんて、ぼくの視界にはいない――)
 ただ、それだけのことだ。
 それで終わるはずのことだったのに。


 次の日の朝、はいつものように登校し、いつものように昇降口で上履きに履き替えた。そして歩き出そうとしたの前方を、人影が覆う。
「おはよーさん、。なんやって呼びにくいわ。て呼んでええ?」
 の行く手を塞いでいた人物に、目の前が真っ暗になった気がした。