君を、見ない(中編)
朝練を終えた忍足は、壁を背にクラスの下駄箱が見える位置で待っていた。とはクラスメイトなのだから、教室にいけば会えることは解っていたが、“会えた”だけでは会話のきっかけにはならない。けれどここ――昇降口で会うのなら、少なくとも教室へ行く間に会話をすることはそう不自然なことではないのだ。
(朝の挨拶は基本やしな――) 忍足は目当ての人物の姿を見つけてゆっくりと近づいていった。 「おはよーさん、。なんやって呼びにくいわ。て呼んでええ?」 こういう言い方をすればまず断られることはない。それに――Yesならそのまま会話を続けられ、Noなら『なんでや?』と理由を聞くことでやはり会話を続けられる。女の子と“仲良くなる”用のマニュアルだが、男相手でも声を掛けるきっかけとしてはおかしくないだろう。 忍足はじっとを見下ろし、その反応を伺っていた。の顔は伏せられたままで、その表情は野暮ったい髪の毛に隠されて見ることができなかった。 (やっぱり髪も切らせたほうがええな――) 観察しつづける忍足の前で、は一度も顔を上げようとはしなかった。 「……おはよう」 辛うじて聞こえた返答はそれだけで、は忍足の脇をすり抜けるようにして歩き出してしまった。 「ちょ――待ってや、。同じクラスなんやし、話しながら一緒に行かへん?」 慌てて追いかけながら忍足がそう言うと、は足を止めて振り返った。 「どうして?」 は忍足のほうを向いている。顔も伏せられてはいない。けれどその瞳だけが――俯いて、忍足を見ていない。 (なんでこない他人と目合わせようとせえへんのやろ。ヒトを見るんが、まるで怖いみたいや――) 「どうしてって――同じクラスにになったんもなんかの縁やし、話しするくらいトクベツなこととちゃうやろ?」 忍足がそう言うと、はさらに目を伏せた。小柄なを見下ろすような形になっている忍足には、が目を閉じているようにしか見えなかった。 「なにを話すんだ?」 「なにて――」 突然返ってきた言葉に、忍足は動揺した。確かに話をするために声を掛けたのだが、面と向かって“なに”と言われると、言葉が出ない。会話というのは双方が協力しなければ成立しない行為なのだと、忍足は改めて思った。 「話すことないなら」 素っ気ない言葉だけを残して歩き出したを、忍足は反射的に手を伸ばして掴まえていた。 なにか――なにか言わなくてはいけない。 「なぁ、のつけてるそのピアス、ルビーなん?」 * * * どうして進路を塞ぐように忍足が立っているのか――声を掛けられても、にはその理由が解らなかった。けれどそのまま通り過ぎることもできずに、仕方なく挨拶だけしてその場を離れたはずなのに。 話をしながら一緒に歩く? どうして? 「なにを話すんだ?」 追ってきた忍足にそう言うと、案の定、忍足は口ごもる。 お互いいままでろくに挨拶もしたことのない間柄なのに、なにを話すというのだ。忍足の考えていることは理解できない。 もしかすると昨日の――忍足は知らないだろうが――が偶然耳にしてしまった会話のことでなにか言いたいのかもしれないが、それこそ、には関係のないことだ。 「話すことないなら」 それだけ言って、は踵を返して歩き出した。 この場から走って去ってしまいたいという衝動を必死で抑える。なんの意識もしていない相手に対してとるには、不自然な行為のはずだからだ。 見るな、話しかけるな――その言葉を口にするのは簡単だ。 けれど本当にそんなことを言えば相手は逆上する。文句を言われたり、嫌がらせされることが嫌なのではない。とにかく自分のことは放っておいて欲しい。関わり合いになりたくない。そのためにはよくも悪くも相手につまらないと思われること、少しでも相手の関心を惹かないことだ。 忍足のことを忘れようとして歩き出していたは、後ろに手を引かれる――それが意味することに気づくのが遅れた。 忍足に腕を掴まれている――そう気づいたとき、忍足の声がすぐ近くで聞こえた。 「なぁ、のつけてるそのピアス、ルビーなん?」 忍足の言葉に、の思考が、身体が、時間が――すべてが停止した。 「体育の着替えのときに外してるとこ見たんや。背向けてたけど、窓ガラスに映っとったで」 体育のある日や風の強い日などは、前もって外しておくようにしていたのに忘れてしまって、着替えているその場で背を向けて素早く外したことはあった。けれど、たった一回だけのことだ。それを――見られていたというのか。 「だったら、なに? 校則違反では、ないよ」 あまりにも派手だったり、高価そうなアクセサリーを身につけていると、教師から注意されることもあるが、小さな石だけのピアスくらいならこの学園では基本的に咎められることはないのだ。 だから忍足になにか言われる筋合いもないはずだ――必死で自分を落ち着かせながら、は答えた。すらすらと言えなかったけれど、声を荒げることなく答えられただけで充分よくできたと思う。 「そうやなくて――ソレ、に似合うとるなあて思て」 背後から腕を掴んで立っている忍足の声は、正面に立っていたときよりもずっと近くで聞こえる。 気持ち悪い――その声も、掴まれている腕も、見られていたことも、なにもかも。 「……そう、どうも」 言葉ではなんとかそう答えられたけれど、身体のほうは無理だった。 は忍足の腕を振り払うと、走り出した。 * * * 「なんというか、手強いやっちゃなぁ」 下駄箱で声をかけたあの日から、忍足はなにかにつけてに話しかけていた。今日は暑いだの、さっきの授業はつまらなかっただのとどうでもいいことから、半ば無理矢理同じ班になった化学の実験レポートの話だの、宿題の答え合わせだののそれなりに真面目な友達らしきことまで、忍足は積極的にに話しかける事柄を探した。 当のは――話しかければ答えるが、それだけだった。忍足の言葉を無視することはないのだが、『はい』か『いいえ』のような簡単な返答ばかり。伏し目がちなその瞳も相変わらずで、あからさまに忍足のことを敬遠している様子は見せないのだが、内心ではそうだろうと忍足は思った。 そこまで解っていても、忍足はに話しかけることをやめようとはしなかった。 あの瞳に真っ直ぐに自分を映したい――いつのまにか忍足は意地になっていたのかもしれない。 「一緒に食事せえへん?」 四時間目の授業が自習になり、クラスメイトが次々と教室を出て学食やサロンのある交友棟へ向かうなか、同じく教室を出たのあとを追って、忍足はそう声を掛けた。 「まだ食べたくないから」 いままでにも一緒に食べないか誘ったことはあったが同じように断られていた。 「どこ行くん?」 もう一度忍足が掛けた声に、が足を止める。けれど振り返りはしない。どう答えたらいいのか迷っているのだと、忍足は解った。 「……屋上」 やがて聞こえた声に、間髪いれず問いかける。 「ついてってもええ?」 忍足の言葉に、の背中は再び迷っている様子だった。けれど忍足は確信していた。こういう言い方をされると、はたぶん断ることはできない。 「忍足が、行きたいなら」 思惑通りの返答に、忍足はの隣を歩くべく足を動かした。 何度も話しかけるうちに、忍足は気づいた。 は『はい』か『いいえ』で自分の意思をきちんと答えはするが、そこにの感情は含まれていない。いまの会話だって『忍足とは一緒にいたくない、ついてくるな』と本心では思っているはずなのに、それを口にしない。 最初は、相手に気を遣っているのかと思ったが、そうじゃない。 は、自分の感情を出さないようにしているだけだ。自分の感情をさらけ出すのも、相手の感情をぶつけられるのも、嫌がっている。怖がっている……のかもしれない。だからこそは相手を見ない――見ることができない。 嫌なら嫌だと、その感情を相手に伝えることは、悪いことではないのに。あの瞳に真っ直ぐに見つめられるのなら、それが負の感情でも構わないと、忍足は思ってしまった。 だから屋上で、フェンスを背に腰かけ、どうでもいい会話を二、三繰り返し、会話が途切れたとき、ふと忍足はの耳元に手を伸ばしていた。 親指と人差し指で軽く触れた硬質の宝石と柔らかいの耳――はビクッと顔を背けて忍足の指から逃げると、隠すように自分の手で耳を覆った。 「……オシャレでしてるんとは違うよな? 見えへんようにしてるし。なにか、トクベツなもんなんか?」 忍足はただじっと、の感情が返ってくるのを待った。 「つけたいから、つけてる」 素っ気ない声音に、これ以上答えたくないという気持ちが含まれているのだとは思う。けれど、ならばそれを口に出せばいい。 「だから見られたくないてことか? でもつけてるってことは、見られたいてことやろ?」 自分の手で耳を覆ってピアスを隠しているの姿は、聞きたくないことから耳を塞いでいるようにも見える。 「ジブン、だれかに気づいて欲しくて、つけてるのとちゃうんか?」 忍足は低く告げて、の返答を待った。 「……関係、ない」 やがて聞こえた小さな声は、震えていた。その肩も、指も。 「忍足には関係ない!」 顔を上げたは、真っ直ぐに忍足を見つめていた。その瞳に、零れそうな涙を溜めて。 「これ以上、ぼくに付きまとうのはやめてくれ!」 立ち上がったは、忍足だけを見下ろしていた。 見たかった――これを見たかったはずなのに。 「そんなに気になるのなら、忍足にあげるよ!」 はそう言うなり、忍足の触れた右耳のピアスを外し、屋上からフェンスの外へ放り投げた。反射的に忍足はその赤い小さな宝石が光に反射して落ちていくさまを追う。 「あほっ!」 忍足は立ち上がっての肩を掴んだ。 「なに考えとるんや! こんな場所からあんなちっさいもん投げたらなくなってしまうで! 大事なものなんやろ!」 大事な――と忍足が口にした途端、思い出したように見開かれたの瞳から涙が溢れた。すぐに伏せられたその睫をつたう涙は止まることなく零れ続ける。 「スマン、俺のせいやな――」 謝って許されることではないけれど。 はなにも言わず、忍足の手を振り払うとその場から走り去ってしまった。 「俺が追い詰めたんや……」 こんなことを望んでいたわけではないのに。自分の浅はかさに気づいてももう遅い。 忍足はフェンスをギュッと握り締めると、落ちていった小さな光のことを思った。 |