君と、いたい1
「退屈……」
思わず口からこぼれ出た本音に、は驚いて顔をあげた。慌てて周囲を見回すが、もちろん誰もいない――当然だ、ここはの部屋なのだから。ほかに誰かいたとしたら、そのほうが驚くべき事態だ。 いや……本当なら、いるはずだった。この部屋に、忍足が。 『夏休みは、いろいろ遊び行こな。ぎょーさん、一緒の思い出つくろ』 氷帝学園は関東大会で負けてしまい、三年だった忍足もこれでテニス部を引退することになった。悔しくないはずはないだろうに、そうに言ってきた忍足の笑顔を忘れない。 もちろんも承諾したけれど、お互いバイトもできず、親からのこづかいのみが資金源では、遊びに行ける場所にも限界があり。の家に忍足が遊びに来て、一緒に宿題をやったりもして、中学生最後の夏休みをたくさん一緒に過ごす予定だった。 実際、過ごしていたのだ――氷帝学園が開催地特別枠で全国大会に出場できると決まった――八月十日までは。 全国大会まであと一週間ということで、もちろん忍足は練習に専念することになり。 氷帝が全国大会に行けることは――忍足の試合がまた見れることは――もちろんにとっても嬉しいことだったから、忍足から電話でそれを知らせてもらって、すごく喜んだ。 『のとこ泊まりに行くはずやったのに――堪忍な』 申し訳なさそうに、忍足は謝っていた。けれどと遊ぶことと全国大会と、比べること事態が間違っているのだから。 「侑士が謝ることないよ。試合、楽しみにしてる。必ず応援に行くから」 が忍足にそう答えたのも、嘘じゃなかった。全国大会は一度だけれど、忍足とはこれからも一緒にいられるのだし。 は忍足のおかげで、大学は医学部のある外部を受験しようかと考えるようにもなったが、高等部はそのまま氷帝へ進学するつもりなので、受験勉強をする必要はない。もちろん宿題は出ているので、全国大会までの一週間、それをして過ごすつもりだったのだが、三日目にして――その手は進まなくなっていた。勉強が嫌いなわけではないのだが、ずっと部屋で勉強だけしているというのに、飽きてしまっていた。それまで忍足と過ごした日々があまりにも楽しかったせいもあるのかもしれない。退屈――と思わず呟いてしまったことには、それがはっきりと現れているだろう。 だからといって、忍足が練習に行くことに不満を持っているわけではないので、が退屈しているなんて忍足に知られてしまっては困る――そう思って慌てて室内を見回したのだが、もちろんの部屋にのほかに誰かがいるはずはなく。そんな当たり前の事実が、をさらに落ち込ませた。 (侑士のこと、嬉しいのはホントなのに――……) すでに勉強を続ける気はなくなっていた。開きっぱなしのテキストの上に、は頭を乗せる。 (ひとりでいるのが、こんなにつまらないなんて) たった三日、忍足に会えないだけだ。四日後には大会で会えると知っているし、忍足にとっていまは練習が大事だということも解っているのに。 (前は、ひとりでいるほうが気が楽だったのにな……) 中学に入ってから、ほとんどの時間をひとりで過ごした。三年に進級してからも、それが続くと思っていた。同じクラスに忍足がいるのは知っていたけれど、特に話をしたりすることもなく、卒業していくだけの関係で終わると思っていた。 『これ以上、ぼくに付きまとうのはやめてくれ!』 なにかとに話しかけてくれた忍足を、はそんなひどい言葉で拒絶した。それでも忍足は諦めずに傍にいて、を見ていてくれた。が変われた――いや、少しずつ変われているのは、忍足のおかげなのだ。 (どうして、ひとりでいられたんだろう……) 忍足は優しい――だからが一言でも会いたいといえば、どんなに疲れていても会いに来てくれるだろう。そんな無理をさせてはいけないし、練習だって楽しいことばかりではなく、きっと辛くても頑張っているのだろうから、だって会えないことくらい我慢しなくてはいけない。ずっと会えないわけではなく、四日後には、コートに立つ忍足の姿が見られるのだから。 教科書の上に頭を乗せたまま、はぼんやりと窓の外を見る。嫌味なくらい、空は清々しく蒼い色をしていた。 (侑士……) いまごろ忍足は、氷帝学園のテニスコートで練習をしているはずだろう。 頭では解っているはずなのに、感情はついてきてくれなくて。 (図書館でも、行こう) 気分を変えるために――少しでも忍足のことを考えないようにと――外出することを決めて、は立ち上がった、そのときだった。 「くん、電話よー」 階段の下からだろう、義母の呼ぶ声がした。 「はーい」 慌てて返事をして、は部屋を出ると階段を降りた。階段の下で、義母は子機を手に待っていた。 「叔父さんからよ」 渡された電話機を、はもう少しで落とすところだった。 * * * 「退屈やわ……」 ベンチに腰を下ろすと、忍足は呟いた。 試合形式の練習の合間、十分ほどの休憩に入った忍足は、ドリンクを飲み干すと、バッグから携帯電話を取り出す。 履歴を見るけれど、からの着信も新しく来たメールもない。こちらから掛けてもいないし、出してもいないのだから当然といえば当然のことなのだが。 全国大会に出場できることになったのは、思ってもみない幸運だった。 はっきり言って、嬉しい。自分たちで勝ち取った権利ではないが、自分たちが劣っていると思ったことはない。それを証明する機会を与えられたのだから、練習にも熱が入ろうというものだ。もちろん忍足も手を抜いているわけではないが、それといまの気持ちとは別のものだ。 「なんだ、忍足? そんなにさっきの一年の話が気になってんのか?」 同じく休憩に入っていた跡部が、携帯を見つめている忍足に言う。一時間ほど前だったか、従兄弟の謙也から『凄い一年』が行方不明になっているという連絡が入ったのは。 「そんなん、忘れてたわ。向こうも全然心配なんぞしてへんやろ。ホンマに心配やったら、俺に電話する前にケーサツにでも届けてるわ」 中学生がはぐれたぐらいで警察は大げさかもしれないが、お互い知りもしない相手を東京で見かける可能性なんてゼロに等しいのだ。そんなことの解らない従兄弟ではないのだから、単にあれは東京に着いたという連絡のついでに、凄い一年がいるんだぞという自慢話になったに過ぎない。 「大体、抽選会は明日やけど、試合まではまだあと四日もあるんやで。レギュラー全員でもう東京来てるほうがおかしいっちゅーねん。絶対アイツら、一年の捜索なんぞせんで、そこいらでナンパでもしとるわ」 「じゃあつまらなそうにしてんのは別の理由か。あんなかには来てねぇのかよ、お前のオンナは?」 跡部があごで示したのは、練習を見に来ている女生徒たちの群れだ。レギュラーがランニングでその前を通ると、こぞって黄色い声を上げる。 跡部には、手を借りたこともあって、忍足が大事に思っている相手がいることがバレている。もちろん、それが男だとは気づいていないし、気づかせるつもりはない。だからこそに、練習を見に来てくれとは言えない。試合の応援にくるくらいはクラスメイトとして普通の行為だが、さすがに毎日練習を見に来るのはそれを逸しているだろうから。 それに、あんな集団のなかに、をひとりで待たせておきたくはない。 「どうやろ、内気やからなぁ」 笑みを浮かべながら、忍足は跡部の問いをさらりとかわした。忍足が答えたくないことを聞き出そうとするのは無駄だと跡部も解っているらしく、それ以上の追求はない。会話を切り上げるように、忍足は携帯電話をしまった。 本当なら、電話もメールもしたい。けれどメールを見れば声が聞きたくなるし、声を聞いたら会いたくなってしまう――自分を抑えられる自信がない。感情なら100%コントロールできるはずだったのに、のことに関しては難しいのだ。そんな自分の弱点を、仲間といえど最大のライバルであるメンバーたちに知られるわけにはいかなかった。 「んー、おるかもしれんし、ほなちょっと走ってくるわ」 まだ休憩時間は残っていたが、忍足は立ち上がった。 次の試合こそ負けられない。勝てばまたと会えない日々が続いてしまうが、の前ではいつも“カッコいい”と言ってもらえる自分でありたいのだから。 * * * 「無理だよ!」 受話器を通して叔父から告げられた内容に、は即答した。 「そんなの、ぼくには無理――……」 『そうか……』 ひどく落胆している様子が、その声からは伝わってきて、さすがにも申し訳なく思った。叔父の頼みなら叶えたいが、でもさすがにこれは無理がある。に、モデルをやって欲しいだなんて。 に向けられているのではない、微かな会話がもれ聞こえてくる。は無理だと言っているとか、いまから代わりなんて誰も掴まらないぞだとか。 『もしもし、くんっ?』 突然、受話器から名前を呼ばれる。それは叔父の声ではなかった。相手は名乗らなかったが、叔父の友人でとも面識がある――叔父の帰国時にも一緒だった――人だと解った。 『突然ゴメン! 実は急に予定してたモデルの子がダメになっちゃったんだよ。でも、メインで撮るのは犬なんだ。ゴールデンレトリバーの、散歩してる姿』 ゴールデンレトリバーと聞いて、の心が少しだけ揺らいだ。飼ったことはないが、犬は好きだ。特に大きい犬は優しげで頼もしい感じがして。 『でも、犬だけ散歩させるわけにはいかないだろ? もちろん犬は人馴れしてるから、咬みつくとかそんな心配ないし、可愛いよ!』 可愛いと聞いて、の心はますます動いた。 『くんはただ犬を連れて公園を歩いてくれればいいだけだから、顔とかはっきり映るわけじゃないよ。ね、お願いっ! 俺を助けると思って!』 そこまで言われては、も断りづらくなってしまう。 「ほんとに、ぼくなんかでいいんですか……?」 『くんがいいんだって! ね、引き受けてくれる?』 「は、はい」 相手の剣幕に押されて、は承諾していた。 『ありがとう! じゃあこれから車で迎えに行くから! ええっと――超特急で、三十分後! いいかな?』 「わかり、ました――」 が答えると同時に、通話は終了した。 (いいのかな、ほんとに……) 引き受けたものの、不安は拭えない。 (でも、もうやるって言ったんだから、ちゃんとやらなきゃダメだよね――侑士だって、頑張ってるんだし) 忍足のしていることに比べれば、にできることなんて、全然大したことではないけれど。 「――お義母さん。ぼくちょっと、叔父さんの手伝いに行ってくる」 子機を戻しにリビングへと入ったは、気合を入れて義母にそう報告した。 |