君を、見たい1
練習の邪魔をして申し訳ないとは思ったけれど、ほかのクラスメイトたちよりも先に、教室で会うよりも前に、忍足に会いたかった。
「――……」 が声を掛けると忍足は振り向いて――驚いた表情で近寄ってきた。 「、その髪――」 マジマジと見つめてくる忍足の視線が恥ずかしいし、すこし怖い。カットしてくれた美容師さんは『雰囲気が全然変わってすっごく良くなった』と言ってくれたけれど、その日初めて会った知らない人の言葉だ。を知っていて、を見てくれていた人の言葉が聞きたかった。 「これ……思い切って染めてみたんだけど、どうかな?」 は左手でその前髪の先を摘んで持ち上げるように忍足に見せた。 後ろは襟足まですっきりと短く、脇は耳の上に掛かるくらいの長さにした――ピアスがはっきりと見えるように。そして、黒い髪も嫌いじゃなかったけれど、重さも見た目も、すべて軽くしたかったから、薄茶色に染めてみた。いままでとは違う自分――鏡を見るたびに自分でもそう暗示をかけられるように。 「もうめっちゃ綺麗やわ……似合うとる」 忍足ならきっとそう言ってくれると思っていた。 でも、実際に面と向かってそう言ってもらえると、こんなに嬉しくて温かい気持ちになるなんて思ってなかった――ふたりを隔てているコートのフェンスがなかったら、飛びついてしまいたいくらい、嬉しくてたまらない。 こんな大胆なことを自分が考えるなんて――は慌ててその思考を打ち消した。 「あの――ありがとう、忍足」 こんな言葉では言い表せないくらい感謝してる。忍足の言葉だからこそ、の背中を押ししてくれる。だから、決めてきたことも――ちゃんと伝えられるはず。 「きみに聞いて欲しいことがあるんだ」 真っ直ぐに忍足を見上げながら、は口にした。 「すぐ済むから、だから、練習が終わったら、すこしだけ時間を――」 「待たれへん。岳人――俺のラケット頼むわ」 忍足はの言葉を遮ると、背後にいた岳人にラケットを押し付ける。 「おい! ちょっと待てってば! 侑士――」 岳人が抗議の声をあげたときには、すでに忍足は走り出していた。 * * * フェンス越しから怒鳴り続ける岳人を背に、忍足はを促して歩き出した。人気のなさそうな――部室棟の裏手まで歩く。並んで歩きながらも忍足はチラチラと横目ですっかり変わったの姿を眺めていた。長い髪で顔を隠し、誰の視線からも逃れるように俯いていたきのうまでとは違う。すっきりと切られて明るい色になった髪に、忍足が見つけた赤いピアスがよく似合っている。すこし俯いてはいるけれど、それは忍足が見ているのに気づいて恥ずかしそうにしているだけのことだ。 「ホンマ……似合うとる」 忍足が呟くように言うと、の頬が赤く染まる。 「あ…ありがと」 そのまま手を伸ばして抱き寄せてしまいたいという衝動は、さきほどからずっと忍足を襲っているものだ。理性を総動員してそれを抑えて、ようやく建物の陰へと入った。 「えっと、聞いて欲しいのは、その――この、ピアスのことなんだけど」 がそっと右手を伸ばして、自分の右耳につけられたピアスに触れながら、話を切り出した。 「ある人に――ぼくの叔父さんにね、ピアス、似合うんじゃないかって言われたことがあって――」 静かに聞いている忍足に、は話し続けた。母親が死んだこと。父親が再婚するのがイヤで、叔父の家に入り浸っていたこと。叔父を尊敬していたこと。死んだ母親と自分がそっくりだということ。そして母親が昔、赤いルビーのピアスをつけていたということ。 「そのとき、解ったんだ。叔父さんはぼくを見ていたんじゃなくて、ぼくの向こうの母さんを見てたんだって。でも……どうしても信じたくなかった。だから自分で買って、つけてみたんだ。きっと母さんになんて似てないはずだって。だけど――」 は俯いて、寂しげに口元を歪めた。笑おうとしたのだろうが、とても笑顔にはなっていない。の悲しみを思うと、忍足の胸も痛んだ。はただ“尊敬している叔父さん”とだけしか言わなかったけれど、その叔父に憧れ以上の感情を抱いていたことは、忍足にも解ってしまったから。 「自分の顔を隠したくて、髪も伸ばして俯いてばかりいた。それでも――それでもこのピアスを外せずにいたのは――」 撫でるようにそのピアスに触れていたの指先が止まる。俯いていた顔をゆっくりと上げて――は忍足を真っ直ぐに見上げていた。 「自分でも気づいてなかったんだ。でも、忍足に言われて気づいた。誰かが――ぼくを見てくれる人が、ぼくに似合うよって言ってくれるんじゃないかって――そんな日が来るのを、ずっと待ってたんだと思う。忍足――ありがとう」 「……」 忍足は手を伸ばして、左耳ののピアスに触れる。 「なんどでも言う――綺麗や。よう似合うとる」 はくすぐったそうに笑うと、恥ずかしそうに目を閉じた。その小さな顔が、触れている忍足の手に預けられるように傾いたのが忍足には嬉しかった。 (抱きしめるんは、まだ驚かせてしまうやろしな。いまはこれで我慢しとき――) 自分に言い聞かせるように忍足はそう思ったが、それでも幸福なことに変わりはなかった。 やがて予鈴が鳴り、慌てて着替えた忍足とは連れ立って教室へ入った。ただでさえ忍足は人目を集めるのだが、その隣に見覚えのない人物を伴っていてはさらに注目の的だった。忍足はそれに気づいていたから、わざと聞こえるようにの名を呼んだ。 「すまんなぁ、。俺が待たせてしまったせいで、ギリギリや」 「大丈夫だよ、まだ先生来てないしね」 忍足の意図に気づいてはいないのだろう――は普通に答えた。けれどそれが合図のように、忍足との周囲に女生徒が集まってくる。 「くんイメチェンー! 一瞬解らなかった〜」 「ほんと〜! くん、めっちゃ可愛い!」 「急にどうしたの? 忍足くんのアドバイス?」 違う――と否定しようとした忍足の袖を、が掴む。 「そう……なんだ。忍足が、こうしたほうが、いいって、言ってくれて」 の答えに女生徒たちが頷く。 「やっぱり! 忍足くんって趣味いいよねー」 ようやく教室に担任教師が入ってきて、みな仕方なしに席に戻っていく。 「ごめん」 彼女たちが去ったのを見計らって、が小声で言う。その意味が解らないほど、忍足もバカじゃない。確かにあの場はああしておいたほうが、彼女たちの好奇心も治まるだろう。 「ええて。どっちにしろ俺は役得やしな」 素早く答えて、忍足も席へ向かった。 真実は忍足だけが知っていればいいことなのだから。 * * * 忍足のアドバイスで――と言ったおかげで、が突然髪型を変えたことは話題になりはしたが、理由を詮索されることはなかった。もちろん、帰国子女なども多い氷帝学園では、茶髪やピアスくらいで注意を受けることもない。の変化は好意的に受け入れられ、女生徒だけでなく男子生徒から話しかけられることも多くなった。 最初はその変化に戸惑いも覚えたのだが、それを打ち消してくれたのも忍足だった。 『外見が変わったせいばかりやないで。が顔上げてちゃんと他のヤツ、見るようになったからやろ? 見た目より、自身が変わっとるんやで』 (忍足は本当に、ぼくの欲しい言葉をくれる――) その忍足の言葉が嘘じゃないように、応えたいとは思う。いままでは、学校はただ行かなくてはいけないからと時間つぶしのような気持ちで行っていたが、それすらも変わった。まだなにがしたい、なにかになりたいという明確な目標があるわけではないけれど、なにか自分にむいていることを自分のペースで捜したいと思う。学校に行くのが、人と会うのが、忍足と喋れるのが――とても楽しい。 その日の朝も、は朝練が終わったあとの忍足と昇降口でちょうど会える時間帯に合わせて電車に乗り込んだ。は電車通学だった。の家は裕福という部類には入るのだろうけれど、普通の家庭よりすこしばかりという程度で、送迎で通学している生徒の家のように送迎用の車があったり運転手がいたりはしない。 通勤通学ラッシュといわれる時間帯の電車に乗り込むことは好きではないのだけれど、たった三駅のことなので我慢する。 ガタンと電車が揺れて、押される。はあまり背が高いほうではないから、スーツ姿のサラリーマンの間に挟まれると苦しくなってしまう。もう一度ガタンと揺れて、さっきとは反対側に力がかかったから、すこしだけ息苦しさが緩まった。ほっとした――そのときだった。 最初は、後ろがなんだか熱いとしか思わなかった。後ろというか、背中というか、そのもっと下が。腰から尻にかけて人の手で撫でられているんだと解ったとき、それでもまだ自分の勘違いだと思った。だっては男だし、制服だって着ているのだから、間違えようがない。もちろん、女だからいいというものではないけれど、ただ、男の自分を触ってくる相手がいるとは思えなかったのだ。 ガタンと再び電車が揺れたのを利用して、は身体の向きをすこしだけ変えた。さっきのは、挟まってしまった手を抜こうとなんとかもがいていただけなのだと思い込もうとしたの期待は最悪な形で裏切られた。 熱い手は、再び伸ばされてきた。今度は――前方に。 の下腹部に触れている手は、布越しとはいえ明らかにに刺激を与える意思を持って動いていた。 (なんで――! なんで、こんな――) あまりのことに、はそれしか考えられない。止めさせたいのに、その手を振り払うことも、『止めろ』と口に出すことさえ思いつかなかった。 やがて電車は駅に着き――は本来ならまだあとひと駅乗っていなければいけなかったけれど――降りる人波に逆らわずにも電車から降りた。車外に出てその新鮮な空気にほっと一息ついたの耳元を「またね…」と低い男の声が掠めた。は反射的に顔を上げたが、降りた人の波は一斉に改札口へと流れていて、の気のせいだったのかすら解らなかった。 結局は、再びその電車に乗ることはできず、その場で三十分――ラッシュが終わるまで、待ち続けたのだった。 遅れて教室に入ってきたを、授業をしていた数学教師は責めなかった。 「おい、――具合悪いなら無理して出てくることないぞ。とりあえず保健室行け」 「平気で――」 言いかけたの言葉を、ガタンと椅子から立ち上がった音が遮った。 「平気やないで、。真っ青やん。先生、俺、連れてきます。ほな、。行こか――」 すぐさま駆け寄ってきた忍足が、促すようにの背中に触れた。その感触に、は思わず身を引いてしまった。 「だ、大丈夫、だから……その、ひとりで、行ける――し」 慌ててそう言ったけれど、忍足の顔が見れない。 「…?」 名前を呼んでくれるを忍足の声が、自分を気遣ってくれていると解るのに、それでも。 「じゃ、じゃあ――」 は足を踏み入れたばかりの教室から抜け出した。 言えない――とてもじゃないけれど、言えることじゃなかった。相手は忍足だと分かっているのに、隣に立たれただけで鳥肌が立ったことなど。 信じられない。忍足なのに――会いたかった忍足なのに。 (どうして……なんで、こんな――) 静まりきった廊下をとぼとぼと歩くの瞳は、なにも映すことなく俯いていた。 |