君を、見たい2
たどり着いた保健室の扉を躊躇いながらもノックしたあと、は押し開けた。スクールカウンセラーも兼ねている年配の女性養護教諭は、の顔色を見ただけでなにも問わず『すこし横になっているといいわ』とベッドを仕切っているカーテンを開けて指し示した。
具合が悪いわけではなかった。眠いわけでも、熱があるわけでもない。けれどなにか、すべてのものが煩わしく感じられた。光を淡く通す薄いクリーム色のカーテンに仕切られた真っ白なベッド。糊の利いた皺ひとつないシーツやカバーには、他人の手垢を感じさせるものはなにひとつなく、なぜだかひどく落ち着いた。 はベッド脇にカバンを置き、ジャケットを脱ぎ、ネクタイも外してその上に置くとベッドにもぐりこんだ。制服越しに伝わっていくる冷やりとした感触が、全身に心地良かった。は目を閉じてその感覚に身を沈めた。 「――眠っているみたいよ」 遠くで聞こえた声に、目を開ける。ぼんやりと拡がる白い世界。 「熱とか――なんか病気ですか?」 続いて聞こえてきた声は、の良く知っているもので。 「……忍、たり」 反射的に呟いて、は自分が眠っていたことに気づいた。と同時に、カーテンが開けられる。 「起きたんか、?」 真っ白な世界を崩すように現われた長身――眼鏡の奥のいつも楽しそうな色を浮かべている瞳が、いまは心配そうにを見下ろしていた。 (不思議だ――忍足が、ぼくを見ているなんて) 忍足はテニス部の正レギュラーだ。いつも誰かに囲まれているような人気者と自分がこんなふうに親しくなるなんて、同じクラスになったばかりのころは思いもしなかった。そして、その忍足の姿を見てこんなにも自分が安心するようになるなんて。 「ん、ちょっと寝てたみたいだ……」 は肌触りの良かったシーツの間からゆっくりと身体を起した。 「顔色はようなっとるけど――熱はどうなん?」 そっと伸ばされてきた掌が、の額に触れた。忍足の指はすこし冷たく、節くれだっていて硬い。ラケットを持つ指――忍足が“天才”といわれていることはも知っているが、それは決して努力なくして得られた称号ではないのだ。 「う〜ん、なさそうやけど……」 忍足がもう片方の手を自分の額に当てながら呟く。 「大丈夫、熱はないよ」 答えて、は忍足が傍に立っているのに、その手に触れられているのに、なんともないことに気づいた。当たり前だ――忍足に嫌悪感など感じる理由はどこにもないのだから。 「たぶん……ちょっと、疲れてたんだと思う」 忍足に横に立たれて鳥肌がたつなんて、ほんとうにショックを引き摺っていただけのことなのだ。いまは忍足の姿を見てこんなに嬉しいのだから。は心から安堵して忍足に微笑んだ。 「もう、大丈夫だから」 「そっか。無理したらアカンで」 優しく見下ろしながらの髪を撫でた忍足の指は、やはり心地良かった。 次の日から、は登校時間を三十分ほど早めた。いつもより早い電車のなかは、座れるほどではなかったが、身体を密着されない程度のスペースが取れるくらいには空いていたので、それで充分だった。 早く学園に着いてしまったは、足がテニスコートへ向かうのと止められなかった。けれどそのフェンス前にはすでに大勢の先客がいた。先日忍足に会いに来たときには、こんなことはなかったのだが。 ぐるりとフェンスを取り囲んでいる女生徒たちから漏れる黄色い歓声に混じって『跡部』という名前が聞こえる。どうやらきょうは跡部景吾がコートにいるらしい。それならばこの光景も頷ける。流石にその女生徒たちのなかに入っていくことはできず、は教室へと向かった。 「、お早うさん」 やがて練習を終えた忍足が教室へと姿を見せた。ラケットバックを肩にかけたまま、忍足はまっすぐにのもとへ近づいてくる。 「お早う、忍足。練習、毎日大変だよね。大会、近いんだっけ?」 「あー、都大会が来週や。その次が関東」 「そっか――ぼくも、応援に行こうかな」 きっと今朝以上の女生徒が群がっているだろうが、試合をしている忍足をちゃんと見てみたい。 「ホンマか? が来てくれたら嬉しいわ。けど来週は俺、出ぇへんから、関東でな。都大会くらいやったら正レギュラーが全員出る必要もないし、俺ら休みなんや」 「流石っていうか……やっぱり氷帝のテニス部は強いよね。楽しみだな」 「まぁ、それも楽しみやねんけど――」 言葉を切った忍足はスッとその身を傾ける。座っていたの耳元へ顔を近づけると囁いた。 「来週、俺休みやし――、デートせえへん?」 「……えっ? デ、デ――デートって、それって、あの、ほら――じゃなくて、その……忍足、試合前だし、その――」 慌てふためくの耳に、クスクスと楽しげな忍足の笑い声が聞こえてくる。 「そんな驚かんといて。大会前のちょっとした息抜きやん。観たい映画あるんや。一緒に行かへん?」 からかわれた――と気づいてももう遅い。思わず顔を背けてしまったけれど、忍足を責める気にはなれなかった。“デート”という言葉に過剰に反応してしまった自分が恥ずかしい。そんなの、どう考えたって冗談だというのに。 「――?」 名前を呼ぶ忍足の声は、ひどく優しい。が怒っているのではなく、テレていることなどすっかりお見通しのようだ。 「……忍足のオゴリなら」 素直にうんと頷くのはやはり悔しくて、はそういう言い方をした。 「決まりやな!」 躊躇うことなくそう答えた忍足には、やはりの考えなど見通されているようだった。 日曜日――は忍足と駅前で待ち合わせた。忍足の観たいという映画は人気のある恋愛映画で、次の上映開始時間まで、通路に並ばされることになる。恋愛映画だけあって一緒に待っているのはカップルが多く、男子中学生の自分たちは少々浮いているようには感じていた。 「意外やった?」 「え?」 急に忍足がそう言ったから、は意味が解らず聞き返す。 「俺がコレ観たいゆうたの」 「あ――うん、ちょっと驚いた。忍足って、なんかフランス映画とか、小さい映画館で、よく解らないの観てそうな気がする――」 「フランス映画もよう観るけどな、恋愛モノは多いし」 「うん、恋愛映画が好きっていうのが意外」 きょうなにを観るのかは、ここへ来るまで教えてもらえなかった。駅近くのシネコンに入ったときも、どのチケットを買うのか聞かされておらず、カウンターでこの映画のタイトルを、学生二枚という言葉と共に忍足が言ったときには本当に驚いたのだ。 「よう言われる。別にほかに興味ないわけやないけどな。アクション映画も、SFも歴史モノも観るで。でもいっちゃん好きなのは恋愛モノなん。やっぱ人間が描く人間が観たい、ゆうんかな……恋愛て、いちばん人間臭いことやん」 そう聞いた途端、意外だと思っていたはずが、急に忍足らしいと思えてきてしまったから不思議だ。 「……そんなに忍足が人間に興味あるとは知らなかったな」 もっと知りたい――忍足のことを。 「映画、楽しみだね」 が忍足を見上げてそう言うと、忍足が「そやな」と答える。それは周囲にいるカップル達とまるで同じ雰囲気だったのだが、が気づくことはなかった。 やがて前の上映が終わり、列の流れに添って忍足とも扉の内側へと進む。すこし後ろのほうになってしまったが、真ん中の席へと座ることができた。の横には一席空いてカップルが座っていたが、やがて入場者が増えてくるとそこも埋まり、流石にいまいちばん人気のある映画だけあって立ち見まででている満席となった。 映画のチケット代は、忍足が払ってくれた。あれは売り言葉に買い言葉みたいなもので、本心ではなかったのだからも払うと言ったのだが、「約束したやん」と忍足は譲らなかった。じゃあジュースを買ってくると立ち上がろうとすると、その手を引かれて座席に戻される。 「きょうは俺が誘ったんやし、ゆうこと聞き」 ポンポンと頭を叩かれ、「なにがええ?」と聞いてくる。まるで子供扱いだと思いながらも、それをイヤだと思っていない自分もちゃんと感じていた。 「烏龍茶」 「了解、すぐ買うてくるわ」 満席の座席の間を抜けて、忍足が売店へ向かう。その背中をはただじっと見送っていた。いつでも、どこにいても人目を惹く立ち振る舞い――忍足を見ていられるのはやはり嬉しいことだった。人波を越え、扉の向こうに消えてしまい、は仕方なく視線を戻した。ふと、左隣の席の男性が広げているパンフレットが目に入る。この映画のパンフレットだ。 (そうか、パンフレットくらいはぼくが買って忍足に渡そうかな――) それは横目で見なくてもの視界に入っていた。A4サイズの大きなパンフレットであるし、残念ながら広くゆったりとした座席というわけではないのだから、多少はみ出していてもはとくに注意する気にもならなかった。むしろひとりですることがなかったのほうが、つい一緒になってパンフレットを眺めていた。 違和感を感じたのは、すこし経ってからだった。左足――太ももの左側が、妙に熱かった。じっとりと汗ばんでくるような、そんな温度だった。 なにか厭な予感がして、は俯きながら左の男性の様子を伺った。そして気づいた――男性が左手だけでパンフレットを持っていることに。男性の右腕は下に降ろされていて、その先は見えなかった――パンフレットに隠されていて。 (もしかして、これ、手――) 男性の手が、置かれているのではないかと、ようやくは気づいた。ちょっと伸ばしてみた――にしてはあまりにも不自然な体勢のはずだ。けれどその触れられている部分が移動することはなく、ただ置かれているという状態だったため、払いのけるきっかけが見つけられない。 (どうしよう――どうしたら――……) ただ俯くことしかできず、は汗ばんでくるその熱に耐えていた。 ふっと――その熱が消えた。パンフレットもだ。 「待たせたなぁ、売店、めっちゃ混んでてん」 頭上から聞こえてきた声に、は顔を上げる。 「ほい、烏龍茶。冷たいのでよかったんやろ?」 忍足が両手に持ったカップの片方をに差し出す。が両手を伸ばしてそれを受け取ると、忍足はの右側へストンと腰を落とした。 「? どないしたん? なかなか戻って来ぃへんから心配したん?」 忍足がおどけるようにそう言った。けれどいまあったことをどう話していいのか分からず、はただ首を振ることしかできなかった。忍足から受け取ったストローつきの紙コップも、なぜかひどく重く感じて、口をつけることなく座席のカップホルダーへと置いた。 「――?」 もう一度呼びかけた忍足の声に、上映開始のベルが重なった。カーテンが割れてスクリーンが現われ、あっという間に照明が落ちていく。 大音量と共に、スクリーンにはこれから上映される映画の予告編が映され始めた。忍足の視線はスクリーンへ向かっていたし、も顔を上げた――そのときだった。 再び、左足がじっとりと熱くなる。慌てて俯くと、左側の男性の右手がの左足にぴったりと添うように置かれていた。手の甲でなく掌がの足に触れているというのは、明らかに不自然な行為だ。けれどまた、その手はの太ももの上に置かれているだけで動くことはない。どうやって跳ね除ければいいのか、には解らなかった。 スクリーンも見ずにずっと顔を伏せているに、忍足も気づいたのだろう――まだ予告編とはいえ上映が開始されている場内で大声で尋ねることができるわけでもなく――忍足がスッと身体を寄せて、の耳元に囁いてきた。 「どないしたん? 気分でも悪いん――」 は反射的に立ち上がっていた。 「ごめん――ごめんなさい――」 小声で言いながら人の間を抜ける。 「――!」 背後で、場内では顰蹙を買うであろうくらい大きく忍足がの名を呼んだ。それでもは止まることも振り返ることもできなかった。忍足が声をかけてきた――耳元にその息を感じた途端、全身に鳥肌がたったのだから。 スクリーンに反射する淡い光だけで、逃げるように場内から出た。明るいところに出られてもほっとすることはなく、はそのまま建物を走り抜けた。 「!」 建物から抜け出した途端、手首を捕まれて後ろに引かれる。明るい陽の光の下で見る――間違えようもなくそれは忍足だった。 「、どないしたん? なんかあったんか――?」 忍足だった。 そこにいるのは誰よりものことを心配してくれている忍足だった。 それは解っている。解っているはずなのに――掴まれている手首から伝わってくる熱に、湧き上がってくるのはどうしようもない嫌悪感だけだった。 「ごめん!」 忍足の手を振り払って、は逃げた。 |