君を、見たい3




「ごめん!」
 振り払われた腕を、追いかけてもう一度掴むことなど忍足には容易にできただろう。けれど忍足はそうしなかった。
――!」
 その場で名前を呼んだが、は振り向くことなく雑踏のなかへ消えていった。
 追いかけたかった。
 追いかけて、その腕を掴んで、振り向かせて――その目に自分だけを映させて理由を聞きたかった。
 けれどできなかった。忍足の腕を振り払ったときのの瞳が、あのときと同じだったから。あの――忍足にピアスを投げつけたときと。突付いたらどうなるんだろうというほんの軽い好奇心からを傷つけた――あんなことはもう繰り返せない。
(けど、一体なんなんや……)
 ほんの少し前、忍足が飲み物を買いに行くまではいつもと変わった様子はなかった。いや――教室にいるときよりもじっと忍足だけを見つめてくるその瞳の可愛らしさに、いつもよりクラクラときてはいたのだが。
 さっきまで――が楽しんでいたのは間違いなかった。急に具合が悪くなったのだとしても、それならあんなふうに走り去るほうが辛いだろう。困惑のあまり泣き出してしまいそうな、ひどく怯えていたような――一体なにがあったというのか。
『――無理に聞こうとしないほうがいいと思うわ』
 数日前、養護教諭に言われた言葉が蘇る。珍しく遅刻してきたは、忍足の目から見ても具合が悪そうだった。授業が終わるなり駆けつけた保健室で、眠っているようだから起さないほうがいいと養護教諭に言われて、どこが悪いのかと忍足は尋ねた。
『身体的な問題ではないと思うわ。身体が辛いなら、本人がそう言うから。なにも言わないのは、言えないからよ。なにかひどく――ショッキングなことがあったんじゃないかしら』
 だから無理に聞こうとせずに様子を見てあげてねと言われ、忍足は頷くしかなかった。自分になにもできないのは、あの屋上で実感した。忍足にできるのは、がいつか話してくれるまで待つことだけだ。
 とりあえずにメールを送っておこうと携帯を取り出したときだった。
「あ、忍足くんだ〜。買い物?」
 掛けられた声に顔を上げると、クラスメイトの女子がいた。
「ん。まぁ、そんなん」
 これ以上会話が続くのを断れるように、忍足は手にしていた携帯をチラリと見た。彼女のことは嫌いじゃないが、いまは話をしていたい気分じゃない。彼女はそれほど頭が悪い子ではないはずだから、これで歓迎されてないことを理解するだろう。
「あ、待ち合わせ? じゃあ、行くね――」
 忍足の読みどおり立ち去ろうとした彼女に、忍足も背を向けて歩き出そうとした。
「あ。そうだ、忍足くん。くんのことなんだけど――」
 たぶんそれ以外の台詞だったら、聞こえなかったフリをして歩き続けたかもしれない。
の? がどないしたん?」
 いつもと違う余裕のない口調になった忍足に、彼女はすこし驚いた表情を浮かべながら答えた。
「あ、あの……あれからもう大丈夫なのかなって思って。あの電車で見かけないし……」
 もう大丈夫? あの電車?
「それ、どおゆう意味なん? ジブン……なんか、知っとるん?」
 忍足の剣幕に、最初は迷っていた彼女も、しどろもどろになりながらも答え始めた。その内容は、忍足を驚かせるに充分だった。
「痴漢…?」
 あの、が遅刻してきた日、彼女も同じ車両に乗っていたという。彼女は始発駅から乗るため、いつも座席に座っているから、が乗ってきたのに気づいても声をかけたりはしていなかったそうだ。だがその日――満員の人ごみの間から見えたがとても具合が悪そうで、気になって見ていたら、が電車を降りて行くのが見えたという。そのとき、の傍にいてを眺めながら一緒に降りていった男に、彼女は見覚えがあったというのだ。
「前に下級生に、あの人に痴漢されたんですって駆け寄ってこられたことがあったの。一緒に追いかけて捕まえたんだけど、“そんなことをした覚えはない、言いがかりをつけるな”ってすごく怒られて。でもそのあと“第一、痴漢は現行犯でなきゃ逮捕できないだろう?”ってイヤな笑い方されてさ、絶対コイツやったなって確信したけど、どうすることもできなくて。あのときくんの傍にいたの、ソイツみたいだったから……」
 そういえばあのとき、保健室に行こうと背中にほんのすこし触れただけで、が飛び上がるように驚いていたということを忍足は思い出した。あれくらい触れることは普通――むしろもっと触れているほうが普通のはずなのに。そしてさっきも――掴んだ手首を思い切り振り払われた。自身もそんな行動をとってしまったことに困惑しているような様子だった。電車でもさっきの映画館でも――痴漢にあっていたというなら、説明はつく。ひどくショックを受けていて、でも話すことができなかったの態度も。
(なんで気づかへんかったんや――)
 電車はともかく、映画館では――忍足が席を外していた隙とはいえ――一緒にいたのに。
 に痴漢行為をした人物が同じかどうかは解らないが、電車でしかけてきた相手には、再び会う可能性も高いだろう。
(このまま終わらせるわけにはいかへん)
「なぁ、ちょお聞きたいんやけど――」
 忍足は彼女に二、三質問を繰り返した。必要な答えを手に入れると彼女と別れ、メールではなく、ある番号へ電話を掛けた。相手は、十コール以上してから、不機嫌そうに電話に出た。
『なんの用だ、忍足。試合の結果なら――』
「そんなんより、もっと大事なこと頼みたいんや――跡部」
 忍足は計画の一部を、跡部に話した。あくまで、ほんの一部を。跡部はあまり乗り気ではないようだったが、無理矢理承知させて、電話を切った。
 最後に――忍足はにメールを送った。
『ちゃんと家に帰れたんか? 今度デートするときはのオゴリやで』
 本気で奢ってもらいたいなんて思ってなかった。あまり心配していることが伝わってしまう内容では、に負担をかけることになりかねないと思ったからだ。
――堪忍してな」
 送信完了の文字を見ながら、忍足は小さく呟いていた。

     *     *     *

 どうしていいか解らなかった――は忍足の手を振り払うと、まっすぐに家に帰ることしかできなかった。家に着いて、そのままベッドの上に倒れこんだ。触られたことの嫌悪はまだ薄れてはいなかったが、それよりも忍足に何も言えず逃げ出してしまったことのほうが、の心に重く圧し掛かっていた。
(ゴメン――忍足、ゴメン――!)
 心のなかでいくら謝っても、忍足には届かない。突然走り去ったを、忍足はどう思っただろう。でも――話すことはできなかった。にだって、どういうことなのかまだちゃんと理解できていないのだ。
(忍足に、嫌われたかもしれない――)
 その思考はの胸を痛いほど締め付けた。我がままで身勝手なヤツだと、もう二度と誘わないと思っているのだろうか。それだけならまだしも、もう学校でも話かけてくれなくなったら――――
 なにをどう言えばいいのかは解らない。でもとにかく、忍足に謝りたい。声で伝えるのは無理だけれど、メールなら――は恐る恐るカバンに手を伸ばした。取り出した携帯にはメールの着信を知らせるランプが点滅していた。映画館に入ってからマナーモードにしたままだったから、いつ届いたのかは解らないが、それが忍足からなのには間違いなかった。のメールアドレスは、忍足にしか教えていないのだから。
 震える指先で開いたメールには、を責める言葉などひとつもなかった。
『ちゃんと家に帰れたんか? 今度デートするときはのオゴリやで』
 ディスプレイに映し出される文字に、目が熱くなった。忍足は、が思うよりずっとのことを考えてくれている。
「忍足、ゴメン……ありがとう」
 は思わず両手でぎゅっと携帯を握り締めていた。胸に痞えていたものが、次第に薄らいでいくようだった。やがて震えの止まった指で、は返信した。
『ゴメン、また明日』
 こんな言葉しか出てこない自分が情けなかった。でも明日、忍足の顔を見てちゃんと笑えるように、逃げ出さずに向き合うからと思いながら、は送信ボタンを押した。


 次の日の朝、の気持ちは暗いままだった。
 夕食も断って考え続けたけれど、結局のところなんの答えも出せなかった。
 故意に触られたという事実だけは理解できた。けれどなぜ自分がそんな目にあうのかが解らない。もしかしたら、相手は誰でも構わないという変質者だったのかもしれない。
 だとしたら――もし次にそんな目にあったらどうすればいいのか。「触るな!」と声に出して怒ればいいのか。けれど、そうしたらその次は――? その先が解らない。それで終わればいいが、終わるのだろうか?
 他人の視線を避け続けてきた二年間が、すっかりを臆病にさせていた。目立たないように、他人から見られないようにするということは、自身が他人を見ないようにすることに他ならない。
 周囲を見ずに過ごしてきたを、忍足が見つけてくれた。
 が知らずに作っていた殻を、忍足が破ってくれた。
 ようやく周囲を見始めたばかりの、はまだヒヨコだった。
 自身は気づいていないことだったが、まだ他人との接し方がよく解っていないのだ。とりわけ、悪意をもって接してくる他人とは。
(とにかく、満員電車には乗らなければいい。席に座るときは、端に座ればいい――そうすれば、大丈夫なんだから)
 自分に言い聞かせて、は暗い気持ちを無理矢理に押しやった。忍足と約束したのだから、学校へ行かなければいけないのだ。
 空いている電車に乗るために早く家を出なければいけない。支度をして部屋を出て――階下へ降りたが見たのは、信じられない光景だった。
「あ、くん。お友達がゴハンまだだっていうから、お誘いしたの」
 義母の声は、どこか遠くで聞こえた。の視線は、その人物に釘付けだったからだ。
「おはよーさん、。よお、眠れたか?」
 家のダイニングテーブルで、コーヒーカップを手にしている忍足がゆったりと微笑んだ。