君を、見てる(前編)




「お義母さん、あの……この間来た、忍足なんだけど……今度の土曜日に、遊びにきてもらっても、いいかな?」
 その日の朝、義母が出してくれた朝食を食べながらは言った。昨日の夜からずっと話す機会をうかがっていたのだけれど、どうやって切り出したらいいのか分からず、結局一晩が過ぎてしまったのだ。
「もちろんよ、くん! 土曜日ってことは、お泊りでいいのよね?」
「いい……の?」
 は驚いて聞き返した。“遊び”じゃなくて“泊まり”だと、食事や寝具の用意など、どうしたって義母の負担が増えてしまう。だからまず、遊ぶことを許可してもらって、それで、もしできたら……と尋ねるつもりだったのだ。
「大歓迎よ!」
 の心配を余所に、義母はとても楽しそうに微笑んでいる。
 先週の朝、忍足がを迎えに来てくれて、そのときに『今度は泊まりに来てね』と言っていたけれど、社交辞令だと思っていた。だから昨日、忍足に泊まりにいってもいいかと尋ねられ、承諾したものの、義母に断られたらと思うと不安でいっぱいだった。
(よかった――これで忍足も少しは喜んでくれる……かな)
「楽しみだわー。あ、忍足くんは、関西の子よね? やっぱり味付けは薄味のほうがいいのかしら。食べ物の好き嫌いは? なにか食べたいものとかあるのかしら? くん、聞いておいてくれる?」
「う……うん」
 義母の張り切りように、のほうが驚いてしまう。
「こんなに早く来てくれるなんて嬉しいわ。テニス部の練習で忙しいって言ってたでしょ?」
 義母の言葉に、は昨日見てきた光景を思い出して俯いた。
「それが、その……ウチのテニス部、昨日の関東大会で、負けちゃったんだ」
 氷帝と青学との試合、も応援に行っていた。練習でなら忍足がテニスをするところを見たことはあったけれど、試合は初めてだった。
 女生徒の集団に入っていくことも、それを掻き分けて前に行くこともできなかったには、コート上の忍足の姿は遠くから小さくしか見ることはできなかったのだけれど、応援することも忘れて、ただ――その真剣な姿に見惚れた。
 けれど負けてしまって――ベンチに戻ってきた忍足の背中しかからは見ることができなくなってしまった。
 そして、氷帝テニス部は一回戦敗退という結果に終わり、会場は氷帝コールに包まれた。
? 帰れるか?」
 残念な結果に呆然としていたは、不意に腕を掴まれて驚く。そこにいたのは、ラケットバッグを抱えてすでに帰り支度を済ませた忍足だったからだ。
 は頷いて、腕を引かれるまま、氷帝コールの続く会場をあとにした。
 忍足と並んで歩きながら、はなにも言えなかった。口を開いたら泣いてしまいそうだったから。でもいちばん悔しい思いをしているのは忍足なのだから、自分が泣くわけにはいかないと必死で堪えていた。
 そんなに、忍足は言ったのだ。
「なぁ、……今度の土曜日、泊まりにいってもええ?」
 普段なら、義母に聞いてからでもいいかと返答しただろう。けれどそのときのは、忍足の言葉を拒絶したくなかった。だからすぐに『うん』と承諾したのだった。
「……そうだったの。残念だったわね」
 の知らせた結果を聞いて、楽しそうにしていた義母も静かになってそう答えた。
「うん……」
 いつもを助けてくれる忍足のために、なにかしたい。けれどなにをしたらいいのか、には思いつかない。
くん」
 再び明るい調子を取り戻した義母の声に、ははっとして顔を上げた。
「それじゃあ忍足くんと、他の思い出をたくさんつくらないとね」
「……お義母さん」
 負けてしまった試合に関して、ができることはなにもない。それなのにがいつまでもふさぎ込んでいては、なにも変わらないし、始まらない。
(なにができるのかまだわからないけど、でも、できることをするんだ――)
「うん、そうする」
 は微笑んで目を伏せた。義母がこんな考え方をする人だと解って嬉しくて、そして恥ずかしかったから。
「そうそう、お布団も干して置かなくちゃ。そうねぇ、ちょっと狭いけど、客間で別々に寝るよりは、くんの部屋にお布団を引いたほうがいいわよね?」
「あ……うん、たぶん」
 忍足に聞くことがいっぱいだと思ったの思考を、電話のベルが遮った。
「ぼく、出るね」
 立ち上がって、はサイドボードの上に置かれていた子機を手に取った。
「もしもし、ですけど……」
『……、か?』
「え……? もしかして――叔父さん?」
 受話器の向こうの声は、忘れるはずもない――がずっと憧れていた叔父のものだった。

     *     *     *

 負けてしまったことに、後悔がないはずはない。
 菊丸と桃城を甘く見ていた部分もあったと思う。実力をすべて出し切ったかと問われれば、否と答えるしかない。自分自身に対する怒りは、周囲にあるものを手当たり次第投げつけてしまいたいほどだ。
 けれどその代わりに忍足がするのは、軽く目を閉じて深呼吸をひとつ。
 それで怒りが消えるわけではなく、強い感情は確かに心の奥にある。けれどもう、表面上それを覚られることはなく、笑うことすらできるだろう。
 氷帝コールの続く中、ラケットバッグを握りなおして、忍足はに近づいた。
 がベンチの上のほうに座っていることに、忍足は試合が始まる前から気づいていた。部員や女生徒たちがグルリと取り囲むフェンス近くには、の性格なら寄って来れないだろうと解っていたから、その姿を捜すのは簡単だった。
 試合開始前にのいるほうに向かって笑って見せたのだが、たぶんは気づいていないだろう。けれど衆人環視のなかで手を振ったりなどすれば、がさらし者になるのは間違いない。忍足は自分が注目されているのを知っているし、それに――できる限りを他人の目に触れさせたくなかった。
(どっか閉じ込めて俺んことしか見れんようにできたらええのに――)
 そんな本音もきれいさっぱり隠しながら、忍足はの腕を取った。
 隣を歩くは、なにも言わなかった。残念だねとか、頑張ったねとか、通り一遍の言葉すら。
 の視線は、忍足の様子を伺うようにときおりこちらに向けられ、なにか言いたげにその唇が開いては、言葉をつむぐことのないまま、噛みしめるようにギュッと閉じる――その繰り返しの一部始終を、忍足はに覚られることなくずっと観察していた。
 そのとき忍足が考えていたことは、当然のようにに――いや以外の誰にだって――知られては困ることだった。
(俺んことで思い悩むの姿も、絶品やな……)
 試合に負けた悔しさを忘れたといえば嘘になるが、怒りが薄れたのは事実だった。
 反省はする。二度と負けないために。
 悔しさはそのために必要な感情ではあるが、いつまでも後悔を抱えるのは無駄なことだ。
 だからもう、気持ちを切り替える――いつになるか分からなくても、次の勝利へと。
「なぁ、……今度の土曜日、泊まりにいってもええ?」
 突然の忍足の言葉に驚いて、目を見開いて忍足を見上げたを、このまま抱きしめてしまいたいと思った感情も、忍足はきれいに押さえ込んだ。


 次の日、昇降口で顔を合わせたの様子は、明らかにおかしかった。
 忍足の姿を見つけて、安心したように微笑する、その姿はいつも通り忍足を喜ばせたけれど、挨拶を交わしたあと、はなにか考えるように黙り込んでしまったからだ。
 会話のないまま教室へと歩き出す。その沈黙を破るのは、忍足の役目だと判断した。
? 土曜日、やっぱりあかんかった?」
 一度会っただけとはいえ、が友達を連れてきた――忍足が勝手に押しかけたのだが――ことをあれだけ喜んでいた義母の様子から、泊まるのも事前に申し込んでおけば断られることはないと思っていたのだが、もしかすると外せない用事でもできて、断るのを言いあぐねているのかもしれない。
「そんなことないよ! お義母さんも喜んでたし、ぼくも……」
も?」
「ぼくも、忍足と一緒にいられるの、すごく楽しみ、だから」
 頬を少し染めながら俯くを見ることができて、忍足にも自然と笑みが浮かぶ。
 否定の言葉は即答だったから、どうやら忍足のこととは関係がないらしい。
「なら、なにがにそない難しい顔させてんのか、気になるんやけどなぁ。俺には言えんこと?」
「え…?」
「俺に、遠慮はナシやで?」
 わざと軽い口調でそう言って、が話やすい雰囲気をつくり、待つ。
 は言葉を選ぶかのように少し考えたあと、話し始めた。
「うん……あの、ね……。今度の日曜日に、アメリカから帰ってくるんだって、叔父さんが……」
 名前を聞かなくても、忍足にはそれが誰なのかすぐに解った。それは、がずっと憧れていた、が人嫌いになった原因を作った相手のことのはずだ。
「あのころ、話もしないで、ただお義母さんのこと嫌ってて、いまは本当に……反省してる。あ! あのね、お義母さんね、氷帝が負けたこと話したら『じゃあ他の思い出をたくさん作らなきゃね』って言ったんだ。ぼく……そういう考え方、すごくいいなって思った」
「そうやな。明るい人みたいやな」
 それにとても優しい人なんだろう。が彼女に対して遠慮していることに気づいていて、でも無理強いせずに、が心を開いてくれるのを待っている。
 彼女にとっては“の友達が家に来る”というのはに甘えてもらえる嬉しい機会に他ならない。だからこそ、断られることはないと忍足は踏んでいたのだが。
「うん。それなのに全然解ろうともしないで叔父さんのところに転がり込んで、叔父さんにも、お義母さんにも迷惑を掛けてたんだって……いまなら解る。だから、叔父さんにも謝りたいって、思うんだけど……」
 は言葉を切って、俯いた。先ほどから何度か見せている、困惑した表情だ。
「――どないして謝ったらええか、解らんってとこか?」
 その言葉に、が足を止めた。
 忍足も立ち止まって振り返ると、驚いた瞳が、忍足を見つめていた。
「忍足は、ぼくの考えてること、なんでも解る気がする……」
 呟いたに、忍足はそっと顔を近づけて囁いた。
「そらそうや。俺はのことばっかり考えてるんやから」
 さきほどよりもはっきりと、の頬に朱が浮かんだ。
 もともとの肌は白くてそれが分かりやすいし、それにいまは――その表情を隠していた野暮ったい髪もないのだから。
「そうやなー、はどないしたい?」
「え…?」
 髪は切った。
 人を真っ直ぐに見るようにもなった。
 けれど――もうそろそろ完全に、を過去から解放したい。
「なぁ、。もしがええっちゅーなら、土曜日は俺とおるんやし、日曜はそのまま――俺と一緒にその叔父さんを迎えに、空港までいくっちゅーのはどうや?」