君を、見てる(中編)




 土曜日の夜、珍しくの父親も夕食の時間に帰ってきていて、父親と義母、そしてと忍足という四人で同じテーブルにつくことになった。
「ほう、忍足くんのお父さんも医者なのか」
「せやけど大学病院の勤務医やから、大して忙しくもないようやったですけど。オジさんみたいに開業しとると、なかなか休みも取られへんのと違います?」
 向かい合って座る父親と忍足との間で続く会話を、忍足の隣に座るはただ眺めているばかりだった。
 義母とのときも思ったのだけれど、忍足は初対面の相手でもすぐ打ち解けてしまう。それが大人でも、萎縮することなどまったくなく。
 もちろんそれはとても忍足らしいことだとは思うのだけれど、には到底真似できないことなので、目の当たりにするとやはり驚いてしまう。
「まぁ多少は。だがわたしは手広くするつもりはないのでね」
「……ほな、にもそのまま跡継いでもらいたいて、考えてます?」
「え…?」
 急に自分の名前を出されて、は思わず声を上げてしまった。父親と忍足、双方から視線を向けられ、箸を止めて俯いてしまう。
「いや……には、の望むことをさせるつもりだ」
 低く静かに告げられる父親の言葉に、は俯いたまま、目を伏せる。そうなのだ、は父親から医者になれと言われたことは一度もない。やりたいことをやればいいと言う。
 の成績は悪いわけではなく、テストでも大体上位十名くらいには入っているのだが、それ以上になったこともないので、すごくいいというわけではないのも分かってはいるのだが。
(期待されて、ない――)
 のその思いを決定付けたのは、進学する中学校を決めたときだ。まだ正式に結婚はしていなかったが、義母を紹介されたあとで、叔父の家に入り浸っていたころでもある。
 親戚の叔母さんや学校の先生に勧められた医学部のある大学の付属中学ではなく、は父親に氷帝学園の名前を出してみた。もちろん氷帝学園も創立八十年を越す名門だけれど、その大学に医学部はない。
 反対するかと思った父親は、あっさりとそれを承諾した。いまと同じような静かな口調で『行きたいところに行けばいい』と。
……めっちゃ愛されとるなぁ」
 ため息をつくような忍足の言葉に、俯いたままだったは隣に座る忍足を見上げた。忍足はフッとに笑いかけてから、再びの父親に向き直って、その会話を続けた。
「うちなんか継ぐ病院もあらへんのに、医者になれぇ、テニスなんて趣味にしとけぇて、もうやかましゅうて敵わんから、中学くらい好きなことやらせぇゆうて、無理矢理こっち出てきたんです。いまだ喧嘩しとるようなもんですわ」
(そう、だったんだ――……)
 忍足と一緒にいるようになってまだそう経っていないとはいえ、忍足の父親が医者であるという事実ですら、は初めて知った。
 でも、分からない。その……“愛されている”という言葉の意味は。
「親というのは、勝手なものだからね。自分が選んだのと同じ道を子どもにも選んで欲しいんだよ。それが子どもの幸せだと思う気持ちは嘘ではないが、本当のところ、自分の生き方を認められたいんだろうな。誰よりも子どもに尊敬される存在でありたいんだ」
「でも、オジさんはを医者にする気ぃは、ないんですよね?」
「……わたしは病院のことで手一杯で、のことも綾香――の母親だが――に任せっきりで、彼女が倒れるまで、彼女の不調に気づきもしなかった。父親としても、医者としても失格だよ」
 母は突然倒れた――らしい。が小学校から帰って来たとき、出先で倒れた母は救急車で搬送されており、家は空っぽだった。は無人の家でひとり、母が帰ってくるのを待ち続けた。
 連絡を受けて母のもとに駆けつけた父がのことを思い出したのはすでに日付も変わりそうな時刻で――鳴った電話に飛びついたが聞かされたのは、今日はもう遅いから戸締りをしっかり確認してから寝て、朝になったらタクシーで病院に来るようにということだった。
 その通りに朝まで待って、は病院へ向かった。そしてようやくたどり着いた病室から出てきた父親は、に母が亡くなったことを告げた。
 母の死に顔は見ていない。よく覚えていないが、そのときのにとっては死=消えたという感覚で、顔を見るなどということを思いつきもしなかったからかもしれない。父親も、特にに見せようとはしなかったと思う。
 あのころのことを思い出して、は両方の手をギュッと握り締めた。すでに箸は置いている。食事を続ける気など失われていた。
 そんなの耳に、変わらず静かな、父親の声が響いた。
「……失ったものを取り戻すことも、いまさら償うこともできないが、せめてには、不自由なく、望むことはできる限り叶えてやりたいと思っている。だから氷帝に行きたいと言われたときは嬉しかったよ。はなかなか、望みを口にしてくれないからね」
(そ、んな――……)
 知らなかった、父がそんなふうに考えていたなんて。
 母が亡くなって――手伝いに来てくれていた親戚の叔母さんは、母のことを悪く言った。所詮お嬢様育ちで、父には相応しくなかったと。
 の帰る家はなくなった。唯一、に優しくしてくれた叔父のもとに入り浸るようになったのも、当然のなりゆきだったのではないかと思う。
「……?」
 俯いたままのの耳元で、優しく呼びかけてくれる、その声。
「ホンマ、は愛されとる」
 知らなかった。気づきもしなかった。
 でもいまは、忍足の言葉が真実なのだと解る。
(忍足に、出会えてよかった――)
 は、顔を真っ直ぐに上げた。
「ありがとう、お父さん――ぼく、氷帝に入ってよかったよ」

     *     *     *

 の自宅に行くのだ――の父親に会うだろうことは忍足も充分に予測していた。けれどのほうは、それを考えていなかったようだ。
 の部屋で――レンタルショップで借りてきた洋画のDVDを見ていたのだが、夕食の支度ができたとの義母が呼びにきたとき、父親の帰宅を告げられたはとても驚いていたから。
 聞けばの父親は内科の開業医で、帰って来るのは大抵九時をまわるという。
 今日に限って早く返ってきた理由を、はまったく思いつきもしないようだったが、忍足には予測の範囲内だった。
(品定めでもなんでも、好きにしてや……)
 伊達で氷帝テニス部のレギュラーを取ったわけではない――見定められるのには慣れている。二度と家に来るなと言われるようなヘマをする気はさらさらない。
 階下にあるダイニングへの後をついて下りていったのだが、忍足よりものほうが微妙に緊張しているように見えた。
「お父さん――お帰り、なさい――」
 明らかに戸惑いを隠せない様子で、が父親に声をかけた。
「ただいま、。きみが忍足くんだね、いらっしゃい」
「お邪魔してます」
 軽く会釈してから、忍足はの父親と顔を合わせた。
 以前、ピアスのことを話してくれたときに、は母親に似ていると聞いていたから、父親とは似ていないのかと思っていたが――忍足が想像していたよりも、の父親はに似ていた。顔かたちではなく、その立ち振る舞いや雰囲気が。
 それはすでに会っていたの義母にも言えることだった。もちろん血の繋がりがないのは解っているが、彼女からも同じ印象を受けた。穏やかで、人が良さそうで、そして――とても控え目な雰囲気。
 確かに忍足は、相手を読むという能力に優れていると自分でも思うが、そうでなくとも簡単に気づけるだろう。
 この三人は三人とも、お互いのことを思いやって、遠慮している。
 このままで悪いというわけではないが、決していい状態とも言いがたい。特に、にとっては。
(なら、少々おせっかいさせてもらうわ)
「――にもそのまま跡継いでもらいたいて、考えてます?」
 忍足の放ったボールは、にも、の父親にもうまく届いたようだった。
「――オジさんはを医者にする気ぃは、ないんですよね?」
 父親の気持ちも分かる――だからに「めっちゃ愛されとるなぁ」と言ったのだが、忍足だってどちらかといえばの立場に近いのだ。忍足の言葉を聞きながら俯いてしまったの気持ちもほぼ理解できているはずだ。
 忍足とて父親への反発から――東京で、テニスが強くて、そして医学部のない付属中学を選んでみせたのだから。
 でも忍足の選択は父親と徹底的に話し合った結果だ。目の前にいるこの父子は、きっとお互いの隙間を埋める言葉が足りなすぎだ。
 でも、それもきょうで終わりにできたようだ。
「……?」
 俯いているに、忍足は優しく呼びかけた。はずっと顔を伏せているけれど、それはさきほどまでの、どうしたらいいか分からずに途方にくれていた仕草ではない。いまのは、泣き出しそうなのを堪えているのだから。
 だからもうすこしだけ、背中を押してやる。
「ホンマ、は愛されとる」
 父親にも、義母にも。そして――会ったことはないけれど――の母親も、をとても大事にしていたはずだ。
 もちろん忍足もそれに負けていないつもりだけれど、いまはまだ、それを告げる機会ではないだろう。
「ありがとう、お父さん――ぼく、氷帝に入ってよかったよ」
 顔を上げて父親に礼を言うの横顔は綺麗だった。それが忍足に向けられたものではないのは、少々残念なことだったけれど。
 その日の夕食は、その場に居合わせた誰にとっても有益なものとなって、終了した。
「お待たせー」
 先に風呂を使わせてもらい、Tシャツと短パンに着替えた忍足はベッドを背に、が戻ってくるのを待っていた。忍足の予想通り――はパジャマ姿だった。オフホワイトの優しい色合いに包まれたは、いつもより幼く見えた。
 いや、実際幼くなっているのだと思う。今夜、の時間は、母親の死んだ直後まで戻されたのだ。
「忍足、喉渇いてない? なにか飲む?」
 は気づいていないだろうけれど、忍足に問いかけてきたその距離は、いつもよりぐっと近い。そしてその瞳は――躊躇いなく忍足を見ている。
「そやな。なんかもらえる?」
 ひどく喉が渇いているというわけではなかったのだけれど、忍足はそう言った。が、忍足のためになにかしたいと思っているのが明白だったからだ。
「うん」
 予想通り嬉しそうに頷いて、再びが部屋を出て行った。
 いい傾向だと思う。これで明日――を中途半端に愛して放り投げた叔父の存在を、から消してしまえれば。でも、その前に――――
「俺の理性が、めっちゃ試されとるなぁ……」
 が戻ってくる前に、忍足はを思いっきり抱きしめたいというこの衝動を押さえ込まなければいけなかった。