恋はここから
「むろまちー。プリント終わった?」
ガヤガヤと煩い教室内で、はトントンと前の席に座る室町の背中を軽く突付いた。 「ん、まぁこれで終わり……だな」 「じゃ、行く?」 「そうだな」 立ち上がったふたりはプリントを教卓の上に置くと、連れ立って教室を後にした。 「二時間目が自習なんて微妙だよなー」 階段を下りながら、が呟く。苦手な数学が自習になってくれたのはいいが、しっかり出された課題を終わらせていたら、それほど時間も残っていない。とりあえずジュースでもとふたりは自動販売機のある食堂へ向かっているのだ。 「まあな。なにか食べるほど腹も減ってないし、打ちに行くほどの時間もない」 「打ちに――? ああ、室町はテニス部だっけ?」 「……だっけ、はひどいぞ、。今年はレギュラーになったんだからな」 「へー」 の気のない回答に不満気に睨みつけた室町の視線が、の背後にそれる。 「あれ? どうしたんですか?」 その言葉はもちろんに向けられたものではなく。 「おー、室町くん。奇遇だねー。いやぁ、今日のラッキーポイントはサボりってことで」 の背後から聞こえてくるのは楽しげな明るい声で。 「どんな占いなんですか、ソレ」 室町の笑い声を聞きながら、は一歩下がって身体の向きを変える。近づいてきたのは明るい髪色のにこやかな笑みを浮かべた三年生だった。 「そーゆー、キミたちは?」 「うちのクラス自習なんですよ。で、時間余ったんで、ちょっと食堂に」 な? と室町が同意を求めるようにに視線を寄越したので、はその人物を見上げて頷いた。視線が合った彼は、少し目を細めるようにしてを見た。 「あれ、キミ……どこかで見たことあるような――ないような。ねぇ、どこかで俺と会ったこと、ない?」 じっと覗き込むように見つめられても、には覚えがない。 「なにナンパしてんですか、千石さん……」 呆れたように室町が呟き、答えられずにいるに「ごめん、ごめん。そんなつもりはなかったんだけど〜」と千石は苦笑いした。 「じゃあ、室町。また部活で〜」 「はい、失礼します」 室町が頭を下げ、実際に去っていったのは千石のほうだったが――その姿が見えなくなってから、は口を開いた。 「部活でってことは、あの人もテニス部なのか?」 「……お前、千石さんを知らないのか?」 知っていて当然というような室町の言い方に、は少しだけムッとして答える。 「同じクラブでも委員会でもない先輩を知るほうが難しいよ」 「千石さんは別だろう? Jr.選抜に選ばれたほどのヒトだぞ! うちの学校で選ばれたのは、あの人だけだったんだからな」 「…………Jr.選抜って、なに?」 の問いに答えることなく、室町が額を押さえては、なにやらブツブツと呟いている。どうやら、これが一般人の感覚なのか、などと言っているようだった。 「!」 顔を上げた室町は、ガシッとの肩に両手を置いた。 「とにかく一度試合見に来い。そうすれば解る! うちのダブルスはもともと全国クラスだし、今年は千石さんも、俺もいるんだから、全国制覇も夢じゃないんだからな! そのために、あんなヤツまで――」 「あんなヤツ……?」 言葉を切った室町には問い返したが、室町は視線を逸らせて、の肩に置いた手を下ろした。 「いや、なんでもない。行かないと――飲む時間がなくなる」 「あ、そうだった」 当初の目的を思い出して、ふたりは再び渡り廊下を歩き出した。 それは室町にとってはごく普通の一日の、起きたともいえないくらいささやかな出来事で、にとっても同じになるはず――だった。 放課後、千石は足取りも軽く階段を上っていた。千石のズボンのポケットに入っているのは、空を思わせるうすい水色の封筒。 『放課後、新校舎の屋上で待ってます』 とだけ書かれた、いまどき古風なラブレター。どんな子が出してくれたのか興味がある――しかも、今日のラッキープレイスは屋上と書いてあったのだ。これは期待できる。 ワクワクしながら少しだけ扉を開けた千石の目に入ったのは、女の子ではなかったし、彼のいい動体視力ではタバコの煙まで捉えることができた。 厭な予感でもなんでもなく、先に女の子が来てくれていたとしたら、この亜久津の姿を目にした瞬間に扉を閉めて立ち去っているだろう。千石もそうしようと静かに扉を閉めかけた、そのとき。 「――でも、テニスするなら煙草はやめたほうがいいと思います。肺活量は、持久力に影響しますよね?」 亜久津のものではない、凛とした声――一瞬、手紙をくれた女の子のものかと思ったが、間違いなくそれは男の声だった。千石が思わず扉を押し開けると、亜久津の向こうに、男子生徒がひとり立っていた。 「俺に指図する気か……?」 聞きなれた――でもいつもより低く機嫌が悪いのがあからさまな亜久津の声。それだけで普通の生徒なら逃げ出してしまうだろうと思ったのに。 「そんなつもりじゃありません。ただ、あなたのためにいいことではないから――」 咥えていたタバコを手に持ち替えた亜久津が、ゆっくりとその男子生徒に近づいていく。気づいたら、千石は飛び出していた。 「いやだなぁ、亜久津くーん。タバコ吸ってるとこなんか見つかったら、出場停止になっちゃうよー」 タバコを持っていない亜久津の手が彼の胸倉に伸びたその瞬間、千石は背後から右腕を回して彼を引き寄せた。 「テニス部がどうなろうと、俺には関係ねぇよ」 「――亜久津が戦う前に負けたって言われたいなら、構わないけど?」 千石がニッコリと、でも挑発的に笑って見せると、亜久津は「下らねぇ」と言い捨てて、立ち去った。口にタバコを咥えたままではあったが。 千石は、なりゆきで自分の腕のなかにいることになった生徒を改めて見下ろした。 「あれ、キミ……?」 軽く首だけ背後に動かした彼も、気づいたようだった。 「あ……えっと、その……」 「“千石さん”」 名前が出てこない様子の彼に、千石は楽しげに自分の名を告げる。 「で、キミはなにクン?」 午前中に室町と一緒だったときには、名前を聞かなかった。男の名前に興味はないからだ。でもいまは、聞きたい。 「えっと――、ですが」 「そっかくんかー。で、くんは、亜久津の知り合い?」 「え?」 千石は特に意味があって質問をしたわけではなかった。ただ、あんなふうに亜久津に話しかける人間はまずいないからと思ったことから出た疑問だった。けれど千石の言葉に、が身体を強張らせた。腕の中に抱えたままでなければ、気づかないくらい微かな動揺だっただろう。 「い、いえ――知り合いじゃ、ないです」 「ふうん」 その答えに、必要以上に身体に力が入っているとは感じられなかったから、そうなのだろう。知り合いではない――でも、なんらかの繋がりはありそうだ。いまは、まだ聞けそうにないけれど。 「そういえば、手紙くれたのってキミ――」 ポケットの中の存在を思い出して、千石は呟いた。 「……は? なんのことですか?」 「うん、なワケないよね。……くんが来たときさ、ここに女の子いなかった?」 「階段ですれ違った人ならいました、けど」 「どんなコ? 可愛かった?」 「……そこまで、見てません」 「そっかー、残念」 ちっとも残念そうではない口調で、千石が言う。 「ええっと……千石、さん?」 「なぁに、くん」 だっていま千石はとても楽しいのだから。 「その……腕、離してもらえませんか?」 いつ言うかなと思って待っていた言葉。そう、千石はいまだの肩に背後から右腕を回したままで――抱きつくというよりは、千石が寄りかかっているような状態なのだが。 「どうしようかな〜。キミさ、なんか抱き心地いいんだよね」 さらにからかうように、千石は言ってみた。『なんですか、それ?』と笑うんだろうか、それともそろそろ『いい加減にしてください』と怒るのだろうか。 ワクワクとの次の反応を待っていた千石に、は真顔で呟いた。 「……そんなこと言われたの初めてです。千石さんて、変わった人ですね」 ――まさか。 ――そんな答えが返ってくるとは。 「キミ、面白いなぁ。うん、いいよ、いい」 千石は笑い出して、とうとう両腕でを背後から思い切り抱きしめた。 「……あ」 声を上げたに、今度こそ怒られるのかと千石は顔を上げる。 「いま、扉開けた女子――階段ですれ違った人だと思います」 「え――どこどこ?」 千石が扉のほうを見たが、すでにそれは閉じられていた。 「あの……追いかけなくていいんですか? いまならまだ、いると思いますけど」 「んー、いいや! だって今日のラッキープレイスは屋上だし」 「……はぁ」 それは、にとってはごく普通の一日が、なんか変なことになってしまったような気がすると思い始めた出来事で、千石にとっては――運命だと思える出来事になるのである。 *あとがき* 相方雪ちゃんのリクエスト、千石ドリ――というか、雪ちゃんが読みたいのはどうやら山吹日常ドリだと判断。なので前半部が付け足しのように千石さん視点じゃないのです(笑) 次は「もっと亜久津」か「地味に南」あたりを出すと思います。 |