恋はここから 2




 占いでは今日はラッキーな日で、その通りに四時間目の授業が自習となり、空いている食堂で早々に昼食にありつけた千石は、四時間目の終了のチャイムと共に食堂を出た。どこかで軽く昼寝でもと考えて、どうせならベッドにもぐり込もうと、その足を保健室へと向けた。
 保健室のある旧校舎へと千石が足を踏み入れたとき、体育館から続くその廊下に見覚えのある顔を見つけて笑顔になった。
「やぁ、く――」
 声をかけた千石は、そのの姿を見て顔色を変えて近づいた。
「どうしたの、ソレ?」
 は体操服のまま右手で左手を押さえているのだが――押さえている右手に血が溜まり、溢れた血は廊下へポタリと落ちた。
「授業で、ちょっと転んで……」
「とりあえず、これ使って」
 千石がハンカチを差し出すと、はそのとき初めて自分の右手で受け止め切れないほど血が溢れていることに気づいたらしい。
「あ……廊下汚しちゃった」
「廊下なんかいいから。っていうか、このままだともっと汚れるし」
「でも、先輩のハンカチが……」
「いいよ、こんなの。ほら、早く押さえて」
 躊躇っているに押し付けるように千石がハンカチを差し出す。の右手に触れた白いそれは、見る見るうちに赤く染まっていった。
「すみません、新しいの買って返しますから」
 その様子に諦めたらしく、は受け取ったハンカチで左手の患部を押さえた。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。早く保健室行こう」
 の肩に手を回して歩くことを促そうとして――千石の悪戯心が目を覚ます。
「ぐずぐずしてると――抱き上げちゃうよ」
 千石がじっとその反応を伺っていると、は顔を上げて不思議そうに答えた。
「先輩……ぼく、足はケガしてませんけど」
(こーゆートコが面白いんだよなぁ)
 思わず笑い出してしまいそうなのを笑みだけに留め、千石はの背中に腕をまわす。
「だーかーらー、ぐずぐずしないの」
 千石に押されるまま、も歩き出した。俯いているその表情は冴えないものだ。傷が痛いだけかもしれないが、ハンカチを借りてしまったことや、千石が付き添ってくれることを申し訳なく思っているからかもしれない。
 けれど千石の内心を知ったら、その顔も変わっただろう。
(ラッキー! やっぱり今日の占いって当たってたよ)


「センセー、急患ですよ〜!」
 ノックもせずにガラリと保健室の扉を開けて、千石が室内に声を掛ける。けれど返ってきたのは、養護教諭の柔らかい女声ではなく、野太い男の声だった。
「千石か? なにしに来た?」
「南? そっちこそなにしてんの?」
「部の救急箱の補充に来て――留守番を頼まれた」
 南は養護教諭の椅子に座ったままで答える。
「え? じゃあいま先生いないの?」
「ミーティングとか言ってたから、あと十五分くらいで戻ってくると思うぞ」
「それじゃ遅いよ! 急患だって!」
 騒ぐ千石の背後に、小柄な生徒が隠れていたことに、南はようやく気づいた。
「急患? 彼のことか――」
 立ち上がった南は、その男子生徒の手が血だらけなのに気づいた。
「切ったのか? ほら、こっちに来い」
 南は治療用のイスを引き寄せると、脱脂綿と消毒薬のしまってあるビンのフタを開ける。
「ほら、くん。南が手当てしてくれるって」
 千石に背中を押されて、は差し出されたイスに座る。
「あ――すみません」
「心臓より高くしてるんだ」
 南はピンセットで摘んだ脱脂綿で手際よく血を拭いていく。
「沁みるかもしれんが、我慢しろよ」
 消毒薬で患部をそっと拭き、ガーゼを当ててテープで固定すると、その上から軽く包帯を巻いていく。千石は立ったまま二人を見ているだけで、なんの手出しもできない手際のよさだった。
「さすがこういう地味な仕事はきっちりできるよなぁ」
「地味は余計だ、千石」
「はいはい。でも俺の出番がなくて残念だな。あ、保健室の使用記録を書いておいてあげるよ。クラスは室町と同じだから……」
 千石の独り言のような呟きを聞いた南が、に問う。
「室町のクラスメイトなのか?」
「あ、はい。……っと、もしかして、先輩もテニス部の方ですか?」
「部長の南だ」
「あ――ええっと、室町がいつもお世話になってます」
「え、あ――いや、こっちこそ、室町のことは、頼りにしてる、から」
 ペコリと頭を下げたに、南が驚きつつも、答える。
 そんなふたりのやりとりを間近で聞いていた千石は、肩を震わせて笑いを堪えた。
「あ……すみません、ぼく、変なこと言いました?」
 千石が笑っているのに気づいて、は顔を上げる。
「いや、くんはそれでいいんだよ〜。ところで、手当て終わった?」
「ああ」
「ありがとうございました」
 頷いた南に、が頭を下げる。
「じゃあ、行こうか」
 千石は笑顔で、手当てが済んだばかりのの左手首を掴んで立ち上がらせた。
「心臓より高く上げてたほうがいいんでしょ? 俺が握っててあげるよ」
「え…あの……」
「じゃあね、南」
「あ、ありがとうございました――」
 戸惑ったままのを、千石は強引に連れ出した。


「さて、どうしようか?」
「着替えたいんで、教室に――」
「ああ、そうだったね。じゃあ教室まで送るよ」
 昼休みの廊下を、新校舎へ向かって歩く。いまだの手は千石に掴まれたままだ。
「先輩……あの、手、辛くないですか?」
「全然。筋力鍛えるのにも役立つし」
「そう、ですか……」
 そういう言い方をすれば、は反論しないんじゃないかと見越したが、その通りだった。大人しく腕を掴ませたままで、ふたりは並んで歩いていた。
「お」
 ふと廊下の先にいた人影に、千石が空いていた左手をひらひらと振った。
「亜久津くん、どこか行くの?」
 千石の問いかけに、亜久津は睨み返してくる。そのとき、隣にいたが亜久津に向かって頭を下げた。亜久津はが目に入っていたはずだが、結局なにも言わずに背を向けてスタスタと歩き出してしまった。
「ああ、くん、アイツと知り合いなんだっけ」
「……亜久津先輩は、ぼくのこと覚えてないと思います」
 答えたはまっすぐに亜久津の背中を見ていた。それは、三日前の屋上の一件を指しているのとは違う気がした。相手が言おうとしないことを『どういうこと?』とか『どういう関係なの?』とストレートに聞くのは千石の主義に反するが、好奇心は押さえられなかった。
くん……答え、微妙にズレてない?」
 千石の問いに、は慌てて亜久津の背中から視線を戻した。
「え? ええっと――知り合いじゃありません。で、いいですか?」
 それは屋上でも聞いたんだけどなぁと思いつつ、千石は「うん」としか答えられなかった。
 以外の人間がそういう答え方をしたら、答えたくないからわざとそう答えたと取れるのだが、彼に関しては、本当にそのまんまの意味しかないんだろうなぁと思うと、やはり楽しくなる。
(もうちょっと、一緒にいたいよね)
「ねぇ、くん。都大会、見に来てみない?」
 歩くのを再開しながら、千石はに問い掛ける。
「あ……いつでしたっけ?」
「来週。室町も出るし、さっきの南もでるよ。もちろん、俺もね」
「室町にも見に来いって言われてるんで、行こうとは思うんですけど……ルールとか知らなくても大丈夫なんですか? 本とかで勉強していったほうがいいですか?」
「平気、平気。相手が取れないボールをたくさん打ったほうが勝ちってだけだからさ」
「そうなんですか。なんかそれって――――」
 の答えを聞いた千石は一瞬息を止めて、それから、もう堪えきれずに大声で笑い出した。


「それ、確かめるためにもおいでよ」
 聞こえてきたよく知っている声に室町が視線をめぐらせると、確かにその人物と――そしてなぜか一緒に――室町が探していた人物がいた。
「千石さんと? なんで一緒に?」
「やぁ、室町。心臓より高く上げておいたほうがいいんだって。というわけでバトンタッチだな」
 駆け寄った室町の目の前に、千石が掴んでいたの左手を差し出してくる。
「え? あ、あの?」
 訳が分からないながらも、室町はの左手首を受け取るように掴んだ。
「じゃあ、くん。さっきの、確かめに来るといいよ」
 それだけ言って、千石は楽しそうにその場から去っていった。
 残された室町は、の手首を掴んだまま、状況がまったく把握できない。
。千石さんとなに話してたんだ? 確かめるって?」
「えっと、テニスのルール知らないって言ったら……」
 お前また…と室町は口の中で呟きつつ先を促した。
「相手が取れないボールをたくさん打ったほうが勝ちだって先輩が言って……」
「それで?」

「だから……『それって、性格の悪い人が勝つみたいですね』って」
 
「アホか、お前は〜!」
 その日、昼休みの廊下に、室町の怒鳴り声が響き渡ったのだった。



*あとがき*   雪ちゃん、試験頑張ってね!の応援ドリ(どこが?) この主人公は相方の雪ちゃんをモデルにしてますが『素直で可愛い』ところだけです。雪ちゃんはアホじゃないです。でもきっと、室町に怒鳴られるの好きそうと勝手に判断してこんな内容に。ごめんよ〜!