見据える先の (前編)


side T

「離して――離してください!」
 部活帰り――薄暗くなった道を歩いていた手塚は、角の向こうから聞こえた声に顔を上げる。その途端、手塚の目に飛び込んできたのは、駆けてくる学生服姿の青年――――
「あ――っ!」
 お互いに避ける間もなく、ぶつかってしまう。バランスを崩した青年を、手塚はとっさに手を伸ばして支えた。
「すみません――」
 手塚にしがみつくような形になってしまった青年が、身体を起しながら言う。サラリと髪が揺れその顔が見える前に、手塚はこの人物が誰なのか気づいていた。
「どうもありが――」
 お礼を言う彼の言葉が途切れ、その瞳が驚きに見開かれるのを、手塚は間近で見ることができた。
「…て、づか、くん?」
「お久しぶりです、先輩」
 手塚が名前を呼ぶと、青年の優しい顔が、さらに微笑みで柔らかくなる。
(こんなに近くでこの笑顔を見るのは二年ぶりだ……)
 感傷に浸りかけた手塚を引き戻したのは、同じく角の向こうか現れた大柄な青年が、腕の中の人の名を呼んだからだ。
くん!」
 大声で名前を呼ばれて、がビクッと身体を震わせたのを、手塚はまだ触れたままでいたの手から直に感じた。そして、その手はギュッと手塚の学生服を掴む――それこそ、縋るように。
 手塚は腕に力を込めてを抱き寄せると、向かいに立つ相手を睨み付けた。
「この人に、なにか用ですか?」
 相手は同じ学生服姿で、手塚よりも――もちろん手塚の腕の中に納まっている華奢なよりも――大きい男だった。すでに薄暗いなかではよく見えなかったが、たぶん学年も上なのだろうと手塚は察したが、それでも一歩も引く気はない。
 相手は手塚の眼光にも、が振り向かずにじっと手塚の腕のなかにいることにも驚いたのだろう。口の中でもごもごとなにかを言って――たぶん「驚かせて悪かった」と言っているようだったが――そして、足早に去っていった。
先輩…?」
 大丈夫ですかという意味を込めて手塚が名前を呼ぶと、はようやくいまの状況に気がついたらしい。慌ててその身体を離した。
「ご、ごめんね……」
 あっさりと身体は離れてゆき、触れていた温もりは消える。名前を呼ばなければもう少し抱きしめていられたのだろうかと、手塚のなかに後悔が滲んだ。
「ごめんね。でも、あの……助けてくれて、ありがとう。その……」
 が顔を伏せる。
「さっきのは、あの、その……」
「俺がお役に立てたのなら、いいんですが」
 言いにくい事情なら聞くつもりはなく、手塚はの言葉を遮って端的に言った。それに――には悪いが、大体の事情は分かってしまう。あの男はのことが好きで、はそれから逃げてきたのだと。
 はほっとしたように、顔を上げて笑みを見せる。あの、とても柔らかい微笑を。
「とても助かったよ。ありがとう」
 そしては手塚に頭を下げた。変わっていない――流れるように綺麗なその所作も、丁寧な言葉遣いも。いや、いっそ見とれてしまうほどになっている。勘違いした輩が、ああして追いかけてくるのが容易に理解できるほどに。
「よかったら、一緒に歩きませんか?」
 を無事に家まで送り届けるつもりで、手塚は言った。『送る』などと言えば、が気を遣うだろうことを見越して。
 しかしそれすらも気づかれたのだろうか――は少しだけ返事を躊躇ったあと、「うん」と小さく頷いて、手塚を見上げた。
 手塚がふたつも学年が上ののことを知ったのは、がよく練習後の部室に顔を出していたからだ。は当時生徒会の副会長を務めており、その仕事を終えて下校時刻が遅くなると、決まってテニス部の部室を訪れていた。当時テニス部の部長であった大和祐大と、一緒に下校するために。
『大和部長は、まだ中にいる――?』
 に初めて声をかけられたときの、あの瞬間を手塚はいまも忘れられずにいる。あのとき、と自分の目線はほぼ同じくらいだったけれど、いまはに見上げてもらえるほど、手塚のほうが高くなった。
「手塚くんは、ずいぶん大きくなったね」
「そうですか?」
 確かに二年前に比べれば二十センチ近く伸びているのは事実だったが、手塚はそんなふうに答えた。の身長もあのころより高くなっていて、おそらく二人の身長差は十センチ程度だろう。
(でも、あの身長差には、まだ足りない……)
 手塚は二年前の卒業式で見た、記念写真を撮っている卒業生たちの光景を思い出していた。卒業証書を片手に、大和がの背後から腕を回していた光景を。
「あれ、不満なの? テニスプレイヤーはやっぱり、身長が高くて手足が長いほうが有利なのかな?」
 けれど……たとえあのときのふたりのように、手塚との身長差が頭ひとつ分くらいあったとしても、手塚にあのような真似ができるわけではないのだから、同じことかもしれない。
「必ずしも、そうとは言えませんが」
 馬鹿な考えを押し出すように、手塚はクイッと眼鏡を押し上げ、歩くことを促した。
「大和先輩は、お元気ですか?」
 結局、気の利いた話題も思いつかず、手塚はそう切り出した。
「うん――今日は立海大付属との練習試合に行ってるよ」
 横を歩くがそう答えて、手塚は合点がいった。がこんな時間にひとりで歩いていて、あんな輩に絡まれていたことの。
 中学時代、大和と一緒に帰ると、何度か共に帰ることができた手塚は、が部室まで大和を迎えにくることは、大和が言及してそうさせているのだとすぐに気づいた。園内を出るまでにに向けられる視線や声の数も多かったが、それはあくまで青学の生徒や先生だ。敷地外へ出てから、建物の影や道路の向こう側からを見ている視線に気づいたのは、一度や二度ではない。後をつけてくることはないようだったから、ストーカーの類とは違うのかもしれないが、がひとりであれば声をかけるくらいのことはすぐにされていただろう。いや、大和と一緒だからこそ、後をつけられなかっただけなのかもしれない。
「祐大も調子がいいみたいだ。『今年は中等部が全国制覇するんですから、高等部も負けていられませんね』なんて言ってたよ。それにしても――とても強くなってるんだね、今年の中等部は」
 昨年、関東大会までしか行けなかったことはも知っているのだろう。あと一歩、届かなかった。大和のものだった――そして現在は手塚の夢に。
「そうですね……今年は、いい一年も入りましたし」
 手塚の言葉に、はクスクスと声を立てて笑う。
「それと同じことを、二年前に祐大が言ったよ」
「そう、なんですか…?」
 自分が大和に似てきたということなのか、越前と自分が似ているということなのか、なんとなく複雑な気持ちで、手塚は相づちを打った。
「他のみんなは元気? 大石くんに心配かけてたりしない?」
「みな個性的が強いので大石も苦労してると思いますが、いざというときの団結力はいいと思ってます」
「それは――うん、きっととてもいいチームなんだろうね。都大会が楽しみ――」
 の言葉が途切れ、足が止まる。怪訝に思い同じく足を止めた手塚は、前方から人が歩いてくることに気づいた。学生服の大柄な――たぶん高校生であろうが――でも、先ほどの男ではない。それはも気がついたようだったが、ただじっと俯いていた。
「あの……ごめん、途中で。えっと、なにを――」
 男が通り過ぎてから、が顔を上げて言う。けれどその言葉も、途中で声がなくなり、視線が逸らされる。
 なにがあったのか、なにを考えているのかは分からないが、が不安を感じていることだけはその空気から伝わってくる。その背中を先ほどのように抱きしめてしまいたい衝動に駆られたが、そんなことができるはずもなく、手塚は伸ばしかけた掌をギュッと握り締めた。
「手塚くん――」
 の瞳が揺れて、見つめていた手塚の視線と合う。
「はい」
 手塚が答えると、は真っ直ぐに言った。
「ぼくと――テニスしてくれないかな?」