見据える先の (中編)


side You

「今日は練習試合で立海大のコートまで行かなければならないので……」
 昼休み、教室でお弁当を食べながら大和が言ったことは、も以前から聞いて知っていたことだった。
「うん、頑張って。今年こそ全国――だよね?」
「そうですね……今年は中等部が全国制覇するんですから、高等部も負けていられませんしね」
「中等部は――そうだね、手塚くんが、最終学年だものね。楽しみだなぁ。ねぇ、祐大。祐大の予定と重ならなければ、試合見に行こうか?」
「それは――まぁ、そのとき考えるとしてですね、
 少しだけたしなめるような口調で大和がの名を呼び、もう一度同じことを繰り返した。
「ボクは今日、立海大へ練習試合へ行かなければならないので――帰りは暗くならないうちに、誰かと一緒に帰ってくださいね」
 もはっきりと言葉にされなくても、大和がなにを心配しているのか気づいてはいた。
「大丈夫だよ、あれから二ヶ月も経ってるんだし……ちゃんと話して、分かってもらえたと思うから」
 は二ヶ月前に、一学年上の、委員会で一緒だった男の先輩に熱烈な告白というものをされていた。同じ保健委員で、に仕事を教えてくれた人だ。剣道部に在籍していて、無口だがやることはきちんとやる、誠実な人だった。
 まさか自分のことをそんなふうに思っているとは気づきもしなかったのでもかなり驚いたのだが、向こうも告白するまでは相当悩んだ様子であったし、なによりも一緒に仕事をしてきて相手の人柄を分かってただけに、無下に断ることもできなかった。もちろん、だからといって受け入れることはできないのだが。
 すみません――と言ったきり黙ってしまったに、先輩は「すまなかった、気持ち悪い思いをさせて」と諦めの表情で笑った。そのとき、の胸にをなにかが痛みのように締め付けた。そしてそれは、指の先からを痺れさせていくような感覚がした。
「気持ち悪いとは、思ってません」
 気がつくと、はそう口にしていた。震える指先に力を込めるように。そうしなければ、の心の奥に静かにしまってある思いまで、否定されてしまうような気がした。大事な、淡い思い出――二年前から、ずっと大切に思ってきた。思うだけなら、許されると思っていたのに。
「先輩のことをそんなふうに見ることはできませんが、でも、気持ち悪いなんて思ってません。ぼくのことを思ってくださって、ありがとうございました」
 それだけ言うと一礼して、はその場から駆け出した。
 それで終わりだとは思っていたのだが、次の日、その一部始終を大和に白状させられ、その日からまた大和はの傍にいるようになったのだ。
「念のためですよ」
 大和はと帰りながら言った。
「これ以上、に告白だなんて、そんな気を起す輩が増えないよう、牽制もできますしね」
「それって――中等部のときのように?」
「ええ、そうです。窮屈ですか、?」
「そんなことないよ。祐大と一緒にいれて嬉しいし。でも、祐大がぼくに合わせて無理をするのはダメだから。テニスを――ちゃんと優先して」
「分かりましたよ」
 そんな会話をしてから二ヶ月が過ぎ――学年も上がり、委員会も変わって、先輩とは廊下ですれ違ったときに会釈するだけの間柄になっていた。だから、もう大丈夫だと思って――それ以前に、なにかあるなんて思っていなくて――図書室で本を読んで、少し遅くなったけれどひとりで帰っていたのに。
くん――」
 目の前に立たれて名前を呼ばれるまで、は気づかなかった。顔を上げて、先輩だと分かったときには、会釈してすれ違うだけではすまされないほど近くにいた。
「もう一度、話したくて――気持ち悪いとは思わないといってくれたし、その――そんなふうに見れないというなら、見て、もらえないだろうか?」
 そのとき初めて、は大和が心配していた理由に気づいた。先輩のことは嫌いじゃない。だからそう正直に答えたのだけれど、思いに答えることができないのなら、やはり明確な形で断るべきだったのだ。
「それは――無理なんです。ごめんなさい」
 頭を下げたまま――顔を上げることができなかった。の頭上で、先輩の苦しげな声が掠れる。
「それは……あの眼鏡の――大和くんと言ったか――彼と付き合っているからか?」
 もしここに大和がいたら、肯定していただろう。が否定する前に、大和がそう仕向けていただろうから。でも、いまここに大和はいない。
 ここで頷けば、それですべて収まるということはにも分かってはいた。けれど――相手が真剣だと判っているからこそ、そういう嘘をつきたくはなかった。
「祐大は――違います。幼馴染なんです」
「じゃあ、他に誰かいるのか?」
 そう返されることを、考えないこともなかった。けれどそう聞かれたら答えようと決めていた答えなのに、口にするのがこんなにも難しいなんて。
 それでも――は覚悟を決めて顔を上げた。
「はい。好きな人が、いるんです」
 心の奥に、ずっとずっと、大切にしまっている人が。
「それは……誰なんだ?」
「ごめんなさい。それは――言えません」
 これだけは、言えない。誰になにを言われようと、言えない。祐大にすら、打ち明けたことはないのだから。
(だって、こんな思いが彼に知られたら――迷惑になってしまう)
くん……君は、いま自分がどんな顔をしているか、気づいているか?」
「え――?」
 が驚いたその隙に、気づけばの腕は先輩に掴まれていた。
「は、離し――」
「誰が……誰が君に、そんなに辛い思いをさせている?」
 思い浮かぶのは、彼の横顔。
 コートを真っ直ぐに見つめる真剣な彼の瞳。
 目標だけを見据える彼に、自分の思いなど邪魔なだけだと分かっている。
 でも、それでも……それでも、思うだけなら。
「辛くなんか……辛くなんか……」
くん!」
「離して――離してください!」
 は手を振り切って駆け出した。とにかくこの場から逃げ出そうと角を曲がった先に人がいるなんて思いもせず、そのままぶつかってしまう。
「すみません、どうもありが――」
 慌ててそれだけ言って顔を起すと、そこには――――
「…て、づか、くん?」
 信じられない。
 二年前よりもずっと背が伸びて、見上げるほどだ。あのころ少しだけあったあどけなさも消えて、大人びた表情をして。けれどが見間違うはずはない。だって変わっていない――変わっていないのだ。の心のなかにある真っ直ぐな瞳は。
「お久しぶりです、先輩」
(ああ、声もあのころよりは少しだけ低くなったんだね……)
 信じられないこの偶然に、は夢の中にいるような気がしていた。
くん!」
 背後から呼ばれた自分の名前に、一瞬にして現実に引き戻される。
 けれど先輩のことはもう考えられなかった。手塚から目を離したら、それこそこれは自分の見ている夢で、手塚が消えてしまうような気がして、はギュッと手塚の学生服を掴んでいた。
 自分の背後に腕が回されたと気づいたのは、そのすぐ後だ。
「この人に、なにか用ですか?」
 耳元で手塚の低い声が響く。その声と、庇うようにまわされている背中のぬくもりに、は不思議なほど安心して目を閉じた。
先輩…?」
 再び耳元で手塚の低く優しい声が聞こえて――ははっとして顔を上げ、離れた。
「ご、ごめんね…」
 先輩はいつのまにかいなくなっていたらしい。それなのに気づかずずっと手塚にしがみついていた。変に思われてしまったのではないだろうか。
「ごめんね。でも、あの……助けてくれて、ありがとう。その……」
「俺がお役に立てたのならいいんですが」
 がどう説明したらよいのか迷っている間に、手塚がそう言った。が困っているのを察して、何も聞かないといってくれているのだと分かる。言葉は決して多くないのに、こういう心地よさは昔から手塚にはあった。
(本当に、変わっていない――)
 自然と、笑みがこぼれる。
「とても助かったよ。ありがとう」
 は嬉しくて頭を下げた。
「よかったら、一緒に歩きませんか?」
 手塚からそう言われたとき頷くのが遅れてしまったのは、も同じことを言おうとしていたからだ。手塚と、もっと一緒にいたい――――
「手塚くんは、ずいぶん大きくなったね」
 会えたら話してみたいことはいろいろあったはずなのに――結局、こんな当たり障りのないことしか言えなかった。しかもそれを言うだけでもこんなに緊張していることを覚られはしないか、少しだけ不安になる。けれどそれ以上に幸福だった。
 ゆっくりと歩き、話しながら、この道がもっともっと長ければいいのに、なんて馬鹿なことを考えていたとき、ふと目線の先に、学生服姿の男がいた。先輩が待っていたのかと、身体が止まる。
『君は、いま自分がどんな顔をしているか、気づいているか――?』
『誰が君に、そんなに辛い思いをさせている――?』
 手首を強く掴まれた、あの感触――――
 向かいから近づいてきた人影は先輩ではなく、そうと気づいてからも、は動くことができなかった。
 人から向けれられる感情があんなにも怖いもので――手塚に会えなかったらどうなっていたのかと思うと怖くなる。
(どうしてぼくはこんなに弱いんだろう……)
 大和に心配されるのも当然だ。
(彼を思うことは辛いことなんかじゃない。辛くなんかない。なのにそれをはっきりと言い返すこともできないなんて……)
「あの、ごめん、途中で。えっと、なにを――」
 とにかくいまは手塚と一緒なのだから気を取り直そうと顔を上げたのに、手塚の瞳を見ることができず、逸らしてしまう。
(いつか――この自分の思いは……、いつか手塚くんに、あんなふうに向けられてしまうんだろうか……?)
 いけない――手塚にだけは、迷惑は掛けられない。
(もっと強くならなきゃいけない……)
 ぼんやりとさ迷っていたの瞳に、手塚が肩から提げているラケットバックが入る。
「手塚くん……」
 それは、無意識の行為だった。
「ぼくと、テニスしてくれないかな?」