世界はなにも変わらない。生きていても、死んでいても。
テニスをすることに、なにか意味があるのだろうか。 なにも、変わらないこの世界で。 その手と声と 1 「着いたぜ、。ここだ」 『越前』と書かれた表札が掲げられた立派な家の前で、タクシーは止まる。、と呼ばれた細身の少年は南次郎の言葉に顔を動かしたが、それはただ声をかけた南次郎を見たというだけの動作だった。 「ここが、今日からお前が暮らす家だからな」 そんな少年の薄い反応に気づいてはいたが、南次郎は何も言わず、もう一度そう言いながら運転手に料金を払い、開けられていたドアから先に降りるとトランクからスーツケースとスポーツバッグを取り出した。 「アメリカの家ほどでかくはねぇけどな、日本ならこれでも豪邸の部類なんだぜ。ほら、入った、入った」 荷物をすべて持つ南次郎のあとを、少年はただ静かについて行く。その黒い髪も伏目がちな黒い瞳、細い手足も、この日本風の庭園には相応しいはずの容姿であるのに、なぜか浮いているように見えるのは、その顔に表情というものがまるでないからだ。それは、その目になにも映してはいない、綺麗なだけの人形のようだった。 「母さん、菜々子ちゃーん、帰ったぜー!」 玄関先で叫んだ南次郎の声に、パタパタと足音をさせて、倫子と菜々子が現れる。 「いらっしゃい、くん。久しぶりね、疲れたでしょう。さぁ、上がって」 「リョーマさんの従妹の菜々子です。わたしもここに下宿させていただいているんです。よろしくお願いしますね」 頭を下げた菜々子の長い髪が揺れる。それに気づきつられたように、少し遅れて少年も頭を下げる。 「、です。よろしく、おねがいします」 たどたどしく小さな声だったが、返された言葉に菜々子はニッコリと微笑んだ。 「よろしくお願いします、さん。よかったらお部屋のほう、ご案内しますね」 「そうだな、見て来い、」 南次郎に促されたが、菜々子の後を着いて階段を上っていく。その姿を見送って、倫子がため息とともに呟いた。 「一年経つけど、くんはやっぱりまだ……」 「倫子、の前でそんな顔するんじゃねぇぞ。あれでも、喋れるまでは回復したんだからな」 「ええ、解ってるわよ。アナタも早く、それ運びなさいな」 南次郎を軽く睨んで、倫子は居間へと消えていった。 そのころ、二階の一室の扉を、菜々子が開けていた。 「こちらがさんのお部屋です。カーテンとかベッドカバーとか、わたしとおばさまで選ばせていただきました。緑色がお好きと伺ったので……もし違うのがよかったら言ってくださいね」 「いえ、ありがとう、ございます」 まだおぼつかない様子だが、先ほどよりは少しはっきりした声で、が礼を言う。 「ちなみに、隣がリョーマさんのお部屋なんですよ」 「リョーマ……は?」 「リョーマさんはまだ学校です。部活があるからいつも帰りは遅いんですけど、今日はきっと急いで帰ってきますよ。さんのお迎えに行けないのを、とても残念がっていましたし」 「ブ、カツ?」 「え? ああ、部活ですか? えっと、学校で放課後行う活動で、リョーマさんはテニス部に――」 「ホウカ……?」 「ええっと、放課後 means after school.He playing tennis every after school. ……これで合ってるのかしら?」 「I see.Thanks.」 の口から出た英語は数単語だったが、日本語よりも流暢できれいな発音だった。日本人にしか見えない外見で流暢な英語を口にされるそのギャップに、菜々子も解っていたはずなのだが少々驚いてしまう。 「ほら、荷物だ。少ねぇな。足りないもんあったら、遠慮なく言えよ。ん、どうかしたか?」 スーツケースとスポーツバッグを抱えて、南次郎が姿を現す。 「いえ、いまさんに、リョーマさんは部活だって説明してたんですけど、“部活”に当たる英語がわからなくて」 「で、解ったのか?」 南次郎が聞いたのは、に向けてだった。 「はい、学校の勉強が終わったあと、テニス、やってるって――」 いま聞いたことを、が答える。単語の意味を正確に教えるなら『クラブ活動の略だ』となるのだろうが、会話の意味さえ解れば充分だと南次郎は思う。そして答えを返すだけの能力さえ取り戻していれば。 「おう、それで合ってるぜ。向こうでも日本語使ってたとはいえ、は日本は初めてだもんなぁ。なんでも解らねぇことがあったら質問しろよ。英語でも構わねぇから」 「はい」 から返ってきたのは抑揚もなく反射的な返事だったが、それでも南次郎は満足だった。一年前――の父親で彼の親友だったが死んだと聞いて駆けつけた病院で――まるで反応しないの姿を見たときは、耳が聞こえなくなったのかと思った。実際――もっとひどいことになったのだけれど。 「みなさんはペラペラだからいいですけど、わたしは責任重大だわ。頑張らなくちゃ」 菜々子の明るい声に、南次郎も一瞬ふけってしまった思い出を追い出して、笑い出す。 「おう、菜々子ちゃんもいい勉強になるってもんだろ?」 そして三人は、お茶の支度をして待つ階下の倫子のもとへ降りていった。 「そうだ、。学校はリョーマと同じ中学校にしておいたぞ。ホントならお前は高校になるんだが――まだ日本にも慣れてないし、リョーマも同じとこに通えるってんで、喜んでたしな。ま、いいだろ?」 饅頭を片手に、倫子の入れた濃い目のお茶を飲みながら、南次郎が隣に座るに告げる。最初の一口だけ口をつけたあとは、ただじっと両手で湯飲みを持ったままのが、ゆっくりと首を縦に振った。 「……はい」 「んで、明日のうちに写真貼った書類だのを持って、学力判定テストだとかいうのを受けに行かなきゃならんのだが、それはリョーマに案内させるからな」 「……はい」 南次郎は満足気に饅頭を飲み込むとお茶で流し込み、空になった湯飲みをテーブルの上に音を立てて置いた。その音に反応するようにが手にしていた湯飲みを静かにテーブルの上に戻す。南次郎は静かに、を観察していた。 「――さっきも言ったが、なんか聞きたいこと、欲しいもんがあったら、遠慮なく言えよ。どんな小さなことだっていい。俺でも母さんでも菜々子ちゃんでもリョーマでも、なぁ?」 「食事の希望なんかも、なんでもいってちょうだい」 「おばさま……リョーマさんが和食がいいって言っても、洋食になさるくせに」 笑い出す三人に囲まれ、ニコリともしないはひとりだけ異質だった。無表情ともいえるその顔が少しだけ眉を顰めて、初めて見せたその表情は、困惑だった。 「オレ……ほんとに、ここに、いても? ご迷惑、なんじゃ……」 途切れ途切れになりながらも一生懸命に思いを言葉にしようとするの背中を、南次郎は軽く叩いてやった。 「ガキがそんなこと気にすんじゃねーよ。お前は大人しくウチで暮らしてりゃいーの。それとも、、俺たちと一緒に暮らすのはイヤか?」 「そんな、ことは――」 「じゃあ、いいじゃねーか。俺たちはたちの代わりにはなれねぇが、お前の親代わりにはなれるつもりだ。はなからお前のことは息子みたいなもんだと思ってたしな。お前だってそうだろーが。リョーマのこと、弟のように思ってんだろ?」 いつだったか、南次郎が練習中にリョーマに怪我をさせてしまったとき、倫子よりも強い剣幕で怒られたのを覚えている。いまのの瞳にそのころの強い意志はないが、リョーマに対してだけは僅かながらも感情を動かすことに南次郎は気づいた。だからこそ、こうしてアメリカの病院から引き取り、一緒に暮らさせてみることにしたのだから。 「はい……」 コクリと頷いたの姿を見て、南次郎は立ち上がった。 「よっしゃ。じゃあ、。ちょっとその辺を散歩してくっか? 寺見せてやるよ。Japanease temple! 本物見たことねぇだろ? なんなら鐘もつかせてやるぞー」 誘いを断ることなく、南次郎は騒がしく、は静かに、越前家を後にした。 「そこの角のコンビニには月水金と、可愛い店員がいてなー」 家から出て歩きながら、南次郎は止まることなく周辺の説明を続ける。ときおリ「はい」と頷くだけのと並んで歩く姿は、『煩い父親にいやいやながらも付き合っている息子』に見えないこともないが、やはりすれ違う人がもれなく視線を向けてしまうほど、非日常的だった。 そうこうするうちに、南次郎はすっかり辺りが薄暗くなっていることに気づいた。 「っと、やべぇ! もうすぐ6時じゃねぇか! 鐘つきに戻んねぇと――! 俺はちょっと先に帰ってるから、お前、ひとりで帰ってこれるな? あの寺のある場所目指して歩いてくれば、ウチに着くから」 家からそう遠く離れたわけではないし、高台にある寺はここからでも見て取れた。初めてで地理に不慣れなをひとりにすることに多少の不安を覚えなくもなかったが、明日からは学校に通うことにもなるのだし、ひとりで歩くことも練習だろう。 「――はい」 頷いたを残して、南次郎は走り出した。 すごい勢いで駆け出して角に消えた南次郎の後を追って歩き出したの足が――ふっと止まる。目を閉じて、なにかの音が聞こえた方向へゆっくりと顔を向ける。 しばらくそのまま立ち尽くしていたが、はその方向へ身体を向け歩き出した。それは、寺とは反対の方向だった。 なにかに導かれるように周囲も見ずに歩いていたの足が、やがて止まる。その目の前にそびえるのは高いフェンス――そのフェンスにぐるりと囲まれた中にあったのは、数面のテニスコートだった。 は目の前にあるフェンスにそっと右手を伸ばし軽く掴むと、目の前のコートでひとりサーブを打つ眼鏡をかけた少年をじっと見つめていた。やがて手持ちのボールをすべて打ち切ったのだろう――少年は反対側のコートへ回り、ボールを拾い始める。跳ね返ったボールのうちのひとつが、いつのまにかの前方に転がっていた。もちろん、フェンスに遮られているが手を伸ばして取ってやることはできない。 やがて最後のボールを見つけた少年がフェンスへと近づく。拾い上げたそのとき、少年――手塚国光の耳に、子供のような声が聞こえた。 「たの、しい?」 手塚はそれが自分に問いかけられたものだとは思わなかった。だからただ、声のした方向にチラリと視線をやっただけだった。 けれどそこにいたのは手塚が想像した子供ではなく、手塚と同じ歳くらいの細身の少年だった。いくらすでに周囲が薄暗くなっているとはいえ、コートのナイター照明はしっかりとフェンス際まで届いている。彼のほかに、人影はなかった。 空耳かと思った瞬間、目の前に立つ少年の口が、動いた。 「たの、しい?」 先ほどとまるで同じ――子供のようなたどたどしい口調で、フェンスの向こうの少年は真っ直ぐに手塚を見ながらそう言った。 「……ああ」 なにが起こっているのか理解できないままだったが、問いには答えようと手塚が頷く。 そんな手塚をじっと見つめたまま、少年は再び口を開いた。 「たの、しい?」 同じ口調で同じ言葉を繰り返した少年に、手塚は戸惑う。いつもなら「ふざけるな!」と怒鳴るところだが、そうしてはいけないと感じさせるものが、この少年を見たときから、手塚を捉えていた。 「お前……」 その正体のわからないなにかに突き動かされるまま、手塚はいつもなら絶対に言わない言葉を、口にしていた。 「やってみたいのか? 少し、やってみるか――?」 |