テニスが好きだった。
なによりも楽しかった。
でもいまは、それがどんな感情なのか思い出せないんだ。




その手と声と 2




 ヒジの治療を始めてから、手塚はもちろんいままでと同じ練習を続けることはできなかったが、それでもその量や内容を変更して、部活が終わったあとの個人練習はやめることなく続けていた。学校の練習では、部長という立場がなくても個人の練習を優先することはできないし、いまは多少人目が気になるというのもある。もちろんそれはギャラリーのではなく、同じ部活内の人間のことだ。ヒジのことは、大石以外には知られないまま完治させるのがベストであろうから。  だから手塚は、声をかけられるまでそこに人がいるということに気づいてもいなかった。
「たの、しい?」
 身長は不二くらいだろう――学年もそう変わらずに見える少年なのに、小さな子供のようにたどたどしく繰り返されるその言葉に、手塚は戸惑った。一瞬からかわれているのかとも思ったが、手塚はすぐにその考えを打ち消した。
 目の前にいる人物に見覚えはない。確かに初めて見る顔だ。誰かに似ているというわけでもない。縁もゆかりもない相手――なのに、なぜかそのまま通り過ぎてしまうことができないでいる。彼がふざけているのではないと、確信に近い思いを抱かせるものはなんだろう…………
「お前……やってみたいのか? 少し、やってみるか?」
 彼の目にテニスへの憧れが浮かんでいるようには見えなかったが、手塚はついそう聞いてしまった。そんなことを口にした自分に驚く。もちろん、その表情が変わることはなかったが。
「……テニス?」
 案の定、彼は嬉しいだの驚いただのの感情は見せず、ただ繰り返すようにそう聞いてきたのだが、言われたことを口にしたのではなく、会話としては成立している。手塚が言ったことを理解できていないわけではないのだ。なのにどうして、彼はなんども同じことを聞いてきたのか。俄然手塚の興味は増す。
「ああ。俺は、楽しいからテニスをやっている。お前も、やってみれば解るんじゃないか?」
 手塚の問いかけに、彼は不思議そうにまばたきを繰り返した。やがてその顔がコクリと下を向く。黒く柔らかそうな髪が、サラリと揺れた。
「そうか。なら入り口は向こうだ。回って来い」
 もう一度、彼がコクリと頷く。頷いてからフェンスにかけていた手を外し、言われた方向へ向かう――その動作は、やはり子供のようだった。とても躾の良い子供の。
 手塚はラケットバッグから予備のラケットを一本取り出した。バカなことをしていると、別の自分が告げている。彼にラケットを渡して? ボールを打たせて? 自分が彼にテニスの楽しさを教えるというのか? なんのために――?
 自分の理解できない行動に戸惑いつつもそれをおくびにも出さず、手塚は振り返った。ゆっくりと彼がこちらに向かって歩いてくる。白いシャツに白いセーターに黒のパンツ――制服なのかと思ったが、どうやら私服のようだった。テニスに適した格好とはいえないが、本格的な練習をするわけではないのだから構わないだろう。靴の予備はさすがに持っていなかったが、幸いにも彼は革靴ではなくスニーカーだった。
「ほら」
 手塚の正面までゆっくりと歩いてきた彼に、ラケットを差し出す。受け取った彼は、グリップを握ると左右に動かし、ラケットの面の表裏をマジマジと見ている。その仕草は、初めて見たものを興味深く観察しているようにもとれたが、グリップの握り方、手首の動かし方、ヒジの角度に、初心者のようなぎこちなさはない。
「お前……テニスやったことがあるのか?」
 その問いに彼は答えることなく、ぼんやりとラケットの握り具合を確かめているだけだった。仕方なく、手塚はボールをひとつ、彼に差し出す。
「打ってみろ」
 手塚の掌の上にある黄色いボールを、彼はまた、初めて見るもののようにジッと見つめていたが、やがて左手を伸ばした。
 手にしたボールをそのまま落とし、跳ね返ってきたところをキャッチする。その仕草はボールで遊んでいるだけの子供のようで、彼はやはり初心者だったのかと手塚が思った、その瞬間だった。
 手塚の目の前で、彼の左腕が綺麗に上がり、ボールを天高く放り投げた。
 それは、一瞬のことだった。
 なんの前触れもなく彼が垂直に飛び上がり、落ちてきたボールを流れるような動作で打ち出していた。
 一瞬にしてボールはネットを越えセンターコートで跳ね返る。もちろん誰もいないコートに跳ね返ったボールは誰に打ち返されることもなく飛び続け、フェンスに当たり、失速しながらコートへ戻ってきた。
 千石の『虎砲』にも似た、完璧なジャンプサーブだった。
 なんの助走もなく真っ直ぐに飛び上がったのに、その打点は高く、流れるような動作で打ち出されたそのボールのスピードも申し分なかった。
 軽い音だけで着地した彼は、まるで羽でも生えているかのような錯覚さえ思わせる。
 ほんとうに一瞬のことだった。
 けれどその一瞬に、手塚は魅入られた。
 風が俯いたままの彼の髪を揺らして、手塚は気を取り戻した。
「お前――テニスできるんじゃないかっ! それも相当できるんだろう? ちょっと、打ち合ってみないか――?」
 焦るように声をかけた手塚の前で、俯いていた彼がゆっくりと顔を上げる。正面を向いたまま――コートを見つめたままの彼の横顔にもう一度手塚が声をかけようとした、そのとき。
「たの、しい…?」
 先ほどと同じ言葉を同じ口調で繰り返した彼に、手塚は怪訝そうに眉を寄せた。
「お前、は……?」
 違う――手塚は気づいた。彼が見ているのはコートではない。彼は――その瞳になにも映してはいない。
I cannot remember...why did I enjoy playing tennis?
「英語――?」
 彼の口を開いたのは突然だったので、手塚にもその意味を理解する前に英語だということしか解らなかったのだが、彼の日本語がたどたどしかったのは普段は英語を使っているからなのかもしれないと、手塚は瞬時に判断した。
I want to know your name. My name is Kunimithu Tezuka. I want to play the game with you.
 彼にこちらを向かせたくて、手塚は彼の左腕を掴んでそう言った。
 手塚の手に抗うことなく、彼は身体をこちらに向けたが、その目は手塚を見ていなかった。なにも見ていないのかもしれないし、なにか、違うものを見ているのかもしれないと手塚は唐突に思った。
The world never change. A morning comes. I can find out no meaning to play tennis.
 彼の口から再び英語が零れる。今度は英語を話すかもしれないと思って聞いていたので、なんとか言葉を拾うことができた。
 世界は変わらない、朝はくる、テニスをすることに意味を見出せない……確かにそう呟いたと思う。言葉の意味は話かっても、それがなにを意味するのかまでは理解できなかった。けれど手塚は答えていた。ほとんど無意識の行為だった。
I think it is meaningful to play tennis. I like playing tennis.
(テニスをすることに意味はあると思う。俺はテニスが好きだ――)
 手塚の言葉に、彼はようやく手塚を見た――見ている、ような気がする。手塚はその黒い瞳に浮かぶものを見落とすまいと、じっと彼を見下ろしたまま続けた。
I want to know your name. Please tell me your name.
 名前が知りたい。目の前にいるこの彼の、名前を呼びたい。
Name ...?
 手塚の言葉を、彼が繰り返した。
Yes, your name.
 手塚の強い声に、彼が口をひらく。
My name is ...
 言いかけた彼がそのまま、あらぬ方向を向いた。言うのを止めたというのではなく、なにか他のものに関心が移ったというような感じだった。スルリと手塚の腕からその身を引く。
I have to go back ...
 行かなきゃ…そう呟いて走り出そうとする彼の左手を、手塚は慌てて掴んだ。
「待て!」
 思わず日本語で叫び、強い力で腕を掴んでしまった。振り向いた彼が、ゆっくりとまばたきを繰り返して、そして手塚のほうへその身体を戻す。
「あ、あの――」
 なにを言ったらいいのか戸惑った手塚の前に、ラケットが押し付けられる。彼が右手に持ったままだったラケットが。
Sorry.
「あ、いや…」
 そういえば忘れていた――彼から手を離し、手塚は貸していた自分のラケットを受け取る。そんなことすら忘れていた。ただ、彼ともっと話したくて――――
 もう一度名前を聞こうとした手塚の眼前で、彼の黒い髪が揺れた。
Thanks.
 耳元でそう聞こえたすぐあと、手塚の頬を、柔らかいものが優しく掠めた。
 手塚の頬に触れたのが彼の唇だと――キスされたのだと――その事実は把握できたが、理解までは至らない。彼が英語を話していたのだという事実から、ようやくこれはただの挨拶なのだと理解できたのだが、当然、それに気づいたときにはすでに彼の姿はコートから消えていた。
 手塚に残されたのは、さっきまで彼が手にしていたはずの自分のラケットと、目に焼きついてとても消えてくれそうにない、風に舞ったような一瞬の彼のプレイだけだった。


 手塚のもとを走り去った少年――は、テニスコートを飛び出し辺りをキョロキョロと見回していた。ほぼ同時に、探していたお互いの姿を見つける。
!」
 名を呼んで、駆け寄ってきたのは。
「リョーマ……」
 自分の名を呟いたの存在を確かめるように、リョーマはその身体に抱きついた。
「心配した――親父が置いてきたまま帰ってこないっていうから、心配したんだからね。なにかあったの――?」
 見上げて聞くリョーマに、はゆるゆると首を振った。にとって、テニスをすることには、なんの意味もないのだから。