大切なものがなくなってしまうのなら。
大切なものなんて作らなければいいんだ。
そうすれば、もう二度と、哀しくなんてならない。




その手と声と 3




 練習が終わるなり、リョーマはコートを飛び出した。背後で、堀尾だろう――片づけを手伝えと怒鳴っている声が聞こえたが、当然のように無視した。本当なら、練習どころじゃない、学校だって休みたかったのに。
「なにそんな急いでんだよ、越前?」
 問いかけてきた桃城を無視することはさすがにできず、「大事な用があるんスよ」とだけ答えて、急いで着替えると部室も飛び出した。
 学校から家までの距離はこんなに長かったかと思いながらリョーマは走っていたが、間違いなくいままでの最短時間でたどり着いた。
「ただいま、!」
 ガラガラッと勢いよく扉を開けて叫んだのに、目当ての人物が現れてくれる気配はなかった。もどかしく靴を脱ぎ、居間に足を踏み入れても、並んでいるのは見慣れた顔ばかりだ。
は――? もう来てるんでしょう? 部屋?」
 迎えにいったはずの父親に詰め寄ると、南次郎はのん気そうに答えた。
「そろそろ帰ってくるんじゃねーか。会わなかったか?」
「どういうこと? は外にいるの?」
 周囲を案内するために散歩に出て、鐘をつくために南次郎だけが先に戻ってきたという話を聞いて、リョーマの顔色が変わる。
「なに考えてんだよ、親父! をひとり置いてくるなんて! は日本初めてなのに!」
「すぐ近所だぞ。コンビニの先ぐらいだ。迷う距離じゃねーし、解んなかったら人に聞くだろ」
「いまのが知らない他人に話しかけられるのかよ! になにかあったら親父のせいだからな!」
「あ、リョーマさん!」
 怒鳴ったリョーマは、リョーマの分のお茶を入れてきた菜々子の前を通りすぎ、再び家を飛び出した。
「そうでなけりゃ、これから生活できんだろーが」
 菜々子の入れてきたお茶を手を伸ばして取ると、南次郎は呟いた。
「いちばん問題なのは、アイツかもしれんな…」


 戻ってきたばかりの家を飛び出したリョーマは、学生服のまま走り回った。
 南次郎の言っていたコンビニのあたりまで来たが、の姿は見当たらなかった。すでに周囲は薄暗く、ほどなく真っ暗になろうという時間だ。
! どこにいるの! !」
 とうとうリョーマは叫んだ。名前を呼びながら探し回った。通りかかった人間が見たならば、いなくなった犬か猫でも探しているのかと思ったかもしれない。その必死な姿から、とても可愛がっているのだろうと。
! 
Where are you…?
 知らずに英語になっているのにも、必死なリョーマは気づいてはいなかった。だがふと、この先にテニスコートがあったことを思い出す。
 いまのがテニスコートに近づくだろうか――?
 確信はなかったが、リョーマはその方向へ走り出した。すると街灯に照らし出されている人影が――遠目でも間違えることはない。リョーマは思い切り名前を呼んで駆け寄った。
!」
「リョーマ…」
 呟くように名前を呼ぶの声に、リョーマは一年前のことを思い出して、思わず抱きしめた。
 のおじさんとおばさんが亡くなったと聞いて父親と駆けつけた病院で――はなにを言っても反応していなかった。必死になって名前を呼んだリョーマを、ようやく見たと思ったら――――
『リョーマ…』
 そのままは意識を失い、倒れたのだった。
 奇跡的に擦り傷と二箇所の骨折ですんだの身体の傷は、二ヶ月で治った。けれど半年間――が口を聞くことはなかった。ようやくここまで――会話ができるまで回復したのだ。もうあんな状態に戻って欲しくはない。
「心配した――親父が置いてきたまま帰ってこないっていうから、心配したんだからね。なにかあったの――?」
 しっかりとの身体を抱きしめたまま、顔だけ上げてリョーマは尋ねた。
 はゆっくりと左右に首を振っただけで、なにも言わなかった。
 どうしてこんな場所にいたのか、このすぐ先にテニスコートがあるのは偶然なのか、リョーマは気になって仕方がなかった。でも――につらい記憶を蘇らせるかもしれないと解っていることを口にするのは、躊躇われた。
――もう、テニスはしないの……?)
 思いのたけを込めて見上げたままのリョーマの額に、軽く優しく、が唇を落とした。
「心配させて、ごめん――」
 兄弟同然に育ったが、こんなふうにリョーマに親愛のキスをくれるのはいつものことだった。けれど一年前なら、こんなふうにキスしたあとには必ず、なによりも自分を大事そうに見つめてくれるの笑顔が見れたのに。
 確かにいまはリョーマを見下ろしてはいるけれど、微笑んではいない。リョーマを見ているはずなのに、同時に、なにか別のものを見ているような気がする――不安に、なる。
「帰ろう、
 急に寒さを感じて、リョーマは言った。
 は、ただ静かに頷いただけだった。


『地図見りゃひとりでも行けるよなぁ』
 次の日――そう言って手書きの地図を手渡した南次郎が、リョーマに案内させるつもりだったのを変更したことに、予定を知らなかったリョーマはすでに登校していて異議を唱えられるはずもない。知っていたも、特にその理由を追求したりすることはなく、大人しく地図を受け取っただけだった。の歩みはゆっくりとしたものだったが、二十分ほどで無事、青春学園の校門前に着くことができた。
 その日は土曜日で、昼も過ぎた時間帯だった。下校していく生徒とすれ違いながら、は校門をくぐる。
 南次郎には『職員室へ行って、竜崎スミレって先生に会えば、あとはその先生の言うとおりにすればいい』と言われていたのだが、どこが職員室なのか、もらった地図には書かれていなかった。見つめていても書かれていないことが浮かびあがってくるわけではないのだが、はただじっと手に持ったままの地図を見つめていた。すれ違う生徒がその様子に関心を抱いてを見るのだけれど、がその視線には気づくことはない。特にその容姿に目を引かれた女生徒たちが声を掛けたそうに何度も彼を見ていたが、掌の上の紙を凝視するに話しかけるタイミングをつかめなかった。
 そんなに、ひとりの人物がゆっくりと近づいていき、そのことでさらに周囲からの視線がその場に集中した。
「やっぱり――。お前、ここでなにをしているんだ?」
 の前に立って――近づいてきた人物――手塚が訝しげに言った。
 ジッと紙切れを見たままなんの反応もないに、手塚は言い直した。
What are you doing here ?
 手塚の言葉に、は初めてその場に人がいるのことにに気づいたらしく顔を上げた。
Ah...I want to see Ms.Ryuzaki.
 から返ってきた答えに、手塚はさらに不審そうに眉を寄せる。
「竜崎先生――? 竜崎先生にお前がなんの用だ? お前は――いや」
 手塚は言葉を切って眼鏡を押し上げた。見れば彼は片手に封筒を抱えている。なにか頼まれたものでも渡しにきたのかもしれない。
「そうだな、俺が案内しよう。
I will guide you to the teacher's room. Follow me.
 ついて来いと言って背を向けた手塚の背後で、彼が呟くのが聞こえた。
...You look very arrogant.
 その言葉に、手塚は足を止める振り返る。
「なにか言ったか?」
 “arrogant”……手塚が知っているその単語の意味は、“偉そう”だ。
 言われなれている言葉とはいえ、面白くないのは事実だったから、手塚は意識的に目元を鋭くした。部内が余計なことで煩いときなどにする目つきだ。菊丸あたりだと、これですぐに大人しくなる。
 けれど目の前の少年は一向に気にした様子もなく、いままでと同じ口調で「なにも」と端的に答えた。
 誤魔化されたはずなのになぜか腹立たしさはなく、むしろその逆の素直さが感じられて、手塚は不思議に思った。そして思い出して、会話を続けた。
「そうか、日本語も話せるんだったな」
『たの、しい?』
 何度もそう問いかけてきたとき、小さい子供のようだと思った。その印象が、いまも変わらないのだ。“偉そう”と言ったのも嫌味ではなく、見たままを口にしたに違いない。
「――話せる」
 手塚の問いに、少年が日本語で答えてきた。
 来客用のスリッパを出してやり、校舎内へ入る。廊下では下校していく数人の生徒とすれ違うが、遠巻きに見ているだけで、話しかけてくる者はいない。
「英語のほうが得意か?」
Yes. ずっと使ってたから」
「帰国子女か」
「帰国――なに?」
「海外で生活していて日本に帰って来た子供という意味だ」
 聞き取れなかったというのではなく、単語の意味を知らないのだろうと判断して、手塚は告げた。
...it is a little different. Because I did not come back to Japan.
 急に英語に変わってしまい、手塚は意味をつかめなかった。英語の授業とは違い、早すぎるし発音も良すぎるのだから。
「すまん、早くて聞き取れなかった」
 手塚が素直に侘び、もう一度言ってくれないかと頼むと、少年が手塚の顔を見上げ、コクリと頷いた。
「それはちょっと違うって、言った――」
 それ以上、なにか言ったと思う――最後の“Japan”だけは手塚にも聞き取れたのだ。
 日本人じゃないとでも言ったのだろうか?
 手塚のすぐ横にあるのは、細く柔らかそうな黒髪と、長い睫――外見だけなら、とても日本的だが――いや、外見で判断するのはいいことではないなと、手塚は眼鏡を押し上げながら、無理矢理視線を前方に戻した。
「どう違うんだ?」
 再び、手塚は質問する。すでに職員室へ近づいており、廊下を歩いているのは手塚と少年のふたりだけだ。ふたりの間にながれた沈黙が、足音をやけに響かせた。
「……言いたくない」
「そうか――すまなかった」
 呟いた彼の言葉に、あっさりと手塚は返した。自分でも詮索しすぎだと思っていた。なぜ彼にはこんなにも聞いてしまうのだろうか――その理由がわからないまま、歩いていた手塚は足を止める。
「ここだ――着いたぞ」
 職員室のドアをノックして開ける。すぐに見つかる存在感のあるその人物に近づき、手塚は声を掛けた。
「失礼します。竜崎先生」
「おや、手塚か。どうかしたのかい?」
「先生を捜している者がいたので案内したのですが」
 そう言って手塚が横にずれると、手塚の後ろをついてきていた少年が一歩進み出て、頭を下げた。
「竜崎先生ですか? 初めまして、です。よろしくお願いします」
 彼はただ、挨拶しただけだ。なんてことのない振る舞いのはずなのに、それは優雅というか――見惚れてしまう動作だった。
――)
 昨日聞けなかった彼の名前をしっかりと刻み込む。
「ああ、アンタがか。話は聞いてるよ、よく来たね」
 スミレの声に、自分がぼんやしていたことに気づき、隠すように手塚は眼鏡を押し上げた。けれどその指が、次の瞬間――止まる。
「もう友達ができてよかったな、。お前さん、この手塚と同じクラスだ」
「え――?」
 声を上げたのは、手塚のほうだった。