忘れたい。違う、忘れたくない。
忘れなきゃ。いや、忘れちゃいけない。 どうすればいい……? どうしたいのかも、もう分からないんだ。 その手と声と 4 「手塚? どうかしたのか?」 「いや、なんでもない、大石」 手塚は集中できていなかったことを隠すように、いくぶん早口でそう答えた。 学力テストを行うという竜崎先生と少年――と一緒に職員室を出て、手塚だけがひとり部室へと向かった。 すでに着替えてコートへ出て、部員達が練習するコートを見ていたはずなのに、気がつくと、手塚の頭のなかにの姿がチラつくのだ。 『たのしい?』と子供のように問いかける表情、羽根が生えているかのような一瞬のジャンプ、優雅にお辞儀をしたときにサラリと揺れた黒髪―――― 「そういえば竜崎先生は今日は来れないんだっけ?」 再び大石に話しかけられ、また気がそれていたことに手塚は気づき、何事もなかったかのように眼鏡を押し上げながら答えた。 「いや……二時くらいには顔を出すと言っていたが」 「へぇ、じゃあそろそろ来るころかな」 大石の答えに、もうそんな時間なのかと手塚が答えようとしたときだった。 「!」 コートにいたはずの一年が突然叫んで、フェンスの出入り口に駆け寄っていく。そこには竜崎先生と――連れられるように後をついてきただけというような、の姿があった。 「誰だろう? 越前の知り合いみたいだけど」 同じようにふたり――いや、駆け寄った越前を入れて三人になった人影を眺めている大石に、手塚は告げた。 「転入生だ」 「手塚、知ってるのか?」 案の定、驚いた様子で大石が手塚を振り返る。 「いや。さっき門の前にいたのを、案内した」 「そうか。でも、こんな四月半ばに転入とは、珍しいな」 大石の言葉に、手塚はなにも返さなかった。 「越前の知り合いだから連れてきたのかな? それとも彼もテニスやるのかな……」 その言葉にも、手塚はなにも答えなかった。手塚の視線は、もうずっとだけを見つめていたのだから。 「大丈夫?」 他人の視線などものともせず、練習も中断して真っ直ぐにのもとへ駆け寄ってきたリョーマは、の前に立つと焦るようにそう尋ねた。 「うん、そんなに難しくなかった、から」 「テストのことじゃなくて、の具合のこと。気分悪くなったりしてない?」 大きな目でじっと見上げているリョーマに、は頷いてみせる。 「大丈夫。そんなに心配しなくても」 「心配なの!」 即答したリョーマを、が不思議そうに見下ろしている。以前のならきっと、ここで笑顔を見せてくれるはずなのに―――― 「Thanks.」 はそう言っただけだったが、それでもが自分だけを真っ直ぐに見ていることに、リョーマは少しだけ安心した。見下ろされている身長差には、不満があるのだけれど。 「どうする、。先に帰ってる? それとも――」 できれば一緒に帰りたい。『待っててくれる?』と続けようとしたリョーマの言葉は、少し離れた場所でふたりのやりとりを見ていたスミレによって遮られた。 「おい、少し打ってみるか?」 その言葉は明らかに周囲に聞こえるように大きな声で言われ、リョーマは正直面白くなかった。まわりの部員達がざわつき、みなに注目し始めたからだ。けれど、が打つというのなら、自分が相手をする――そのつもりだったのに、の反応を伺っていたリョーマはそれを口に出すのが遅れた。 「それならば、俺が相手をしよう」 背後から聞こえてきた静かだが凛と通る声に、リョーマは驚いて振り返った。部員達の、に注がれていた視線が一斉にその声を発した人物――手塚へと向けられる。今度のざわつきは先ほどの比ではない。 「Hey, did you have anything to do with him?」 ねぇ、彼となにかあったの? と、堪らずにリョーマはに尋ねた。 「Nothing.」 「He says he want to play tennis with you. 」 じゃあどうしてあの男はとテニスがしたいというのか。のことを知らなければ、出てこない発言のはずだ。 「Why do I play tennis with him? 」 彼がとテニスをしたいと言っているよと告げたリョーマの言葉に、は『どうしてオレが彼とテニスをするの?』と返してきた。やはり、のほうにはなんの覚えもないらしい。 「I don't know.」 リョーマはに素早く答えて、そして手塚に向き直ると、勝ち誇ったように言った。 「部長! はしないってさ」 そして手塚の返事を待つことなく、再びへと身体を戻す。 「疲れてるでしょ、。もう帰って休んだほうがいいよ」 一緒に帰りたかったが、手塚がなにを考えているのか解らない以上、をここにおいておくわけにはいかない。 は、いま自分の置かれている状況に関心を示すこともなく、リョーマを見つめたまま頷く。 「心配しすぎ――でも、そうする。またあとで」 そして――リョーマには少し不本意ながら――は屈んで、リョーマの頬にキスをした。もちろんリョーマも、の頬に触れるだけのキスを返す。 そして、振り返ることなく、はコートを出て行った。 の姿が見えなくなってから、慌てたように堀尾たち一年がリョーマの周囲を囲む。 「え、越前! 誰なんだよ〜? いまの!」 堀尾の問いに、リョーマはニヤッと笑って答えた。 「My precious.」 「え? え? いまの英語だよね? リョーマくん、なんて言ったの?」 聞き返したカチローではなく、その背後にいる手塚へ視線を向けながら、リョーマはもう一度口にした。 「My precious. He is my precious.」 「プレシャス――愛しい人、という意味だね」 そう言いながら手塚の背後に、影をつくるように立ったのは、青学の頭脳、乾貞治である。忍び寄るように背後に立たれたことで、手塚の眉間にさらにしわが寄った。 「乾――」 「誰なんだい、手塚?」 対する乾の声は楽しそうだった。 「転入生だ。さっき門で会って、案内した」 大石に答えたのと同じことを手塚は乾に教える。 「それで?」 「越前の知り合いらしいが」 「見てたから解るよ。俺が聞きたいのは――どうして手塚が彼の相手をしようって言い出したのか、だよ。手塚は彼を知ってるんだろう?」 知っている――と言えるのか。名前だって、ついさっき聞いたばかりなのに。 「誤魔化したって無駄だよ。手塚が実力も判らない初対面の相手に対してあんなことを言うような性格じゃあないのは、みんな知ってることだしね」 答えずにいた手塚に、乾が言う。誤魔化そうなどという気持ちはなかった。ただ――説明はできないのだ。先ほどの言葉だって、普段ならあんなに簡単に口にしたりはしないと、自分でも分かっていた。なのに気がついたらそれはもう声になっていた。 手塚を、こんなに見境なく突き動かすもの、それは―――― 「昨日偶然、一瞬だけ彼のプレイを見た。それだけだ」 すべては、あの一瞬の出来事。 「へぇ。一瞬で手塚が興味を持つほど、すごいんだね、彼は」 「それを、確かめたかった」 いや、確かめたくて仕方がない。いま、この瞬間も。 「少し、調べてみるか……」 手塚の視線が、いつもに増して不機嫌そうに、乾を捉える。 「解ったら教えようか、手塚?」 本領発揮とばかりに楽しげに振舞う乾から、手塚は視線を背けた。 「いや」 知りたいことは、自分で調べる。幸いにも、彼とは同じクラスになるそうなのだから。 部活を終えたリョーマは、桃城に漕がせた自転車を急がせ、さらに最短記録を更新して帰宅した。 「ただいま!」 帰って来たリョーマを、いちばんに出迎えたのはだった。 「おかえり――」 その表情に笑みはなかったけれど、姿を見せてくれたことだけで嬉しかった。リョーマはラケットバッグを下ろし、その細い腰に手を回して抱きついた。 もともとは痩せていたけれど、この一年でもっと細くなってしまった。 (もうテニスはやらないの――?) (本当に、部長とはなにもないの――?) 問い詰めてしまいたくなる衝動を、を抱きしめる腕に力を込めることでやり過ごそうとした。 「どうか、したの…? リョーマ――」 頭上で聞こえる囁くような声と、髪を撫でてくる優しい温もり。 大丈夫だ、はここにいる。はいまここにいる。焦らなくても、いつかはきっと、また昔のに戻るはずなんだから。 「なんでもない」 リョーマは顔を上げて、の腰に回していた腕をゆっくりと外した。 「リョーマ」 掛けられた声に視線を向けると、がリョーマに手を差し出していた。驚いたけれど、リョーマはすぐにその手を握り、子供のように手を引かれながら、ふたりで居間まで歩いた。 そのあと食事の間もずっとべったりで、そして――ふたりで入るにはちょっと狭いという住宅事情さえなければ、きっと風呂も一緒に入ったのだろうが――交互に風呂に入り、それでも離れがたく、リョーマはの部屋に来ていた。 ほとんど荷物を持ってきていない上に、まだ荷物の整理をしていないらしいの部屋は、リョーマの母親が用意した最低限の物しか置かれていなかった。 機内での暇つぶし用に買ったのだろうか――鞄からはみ出ていた雑誌を引き抜くと、ベッドを背もたれに座っていたの隣に、同じようにリョーマは腰掛け、パラパラと雑誌を捲った。自然科学をテーマに取り上げるこの雑誌の今号の特集はアザラシのようで、何ページにもわたってその可愛い写真と詳しい生態などが載っていたが、リョーマの興味をひくものではなかった。 「ねぇ、。お願いがあるんだけど。部長には、あんまり近づかないで」 さりげなく言うつもりが、上擦ってしまった。 「部長?」 「コートにいた、あの眼鏡の偉そうなヤツ」 聞き返したにそう説明すると、から「手塚?」と返ってきた。 「知ってるの?」 驚いて聞き返すと、がコクリと頷く。 「職員室に、案内してもらった。竜崎先生が、同じクラスになるから、解らないことは聞けって」 の言葉に、リョーマは手にしていた雑誌を叩きつけるように閉じた。 「なにそれ? と部長は同じクラスになるってこと――?」 憤るようなリョーマの口調に、が首を傾げる。風呂上りのその髪は、まだ少し湿っているようだった。 「悪いこと、なのか?」 「そうじゃ、ないけど……」 そうだと答えられるほど、もう子供ではないつもりだ。子供ではないからこそ――素直に、悔しいことを認められる。 「俺が面白くないだけ。俺は……とは同じクラスにはなれないから」 もう五年以上も前のことだけれど、と同じ学校に通えないことに拗ねて、と口を聞かず、何度も困らせた。そんなことは、もうしないのだ。 閉じてしまった雑誌を床に置き、俯いてしまったリョーマの横で、が立ち上がった。 「リョーマ」 優しく掛けられた声と、差し出された手。 「一緒に寝る?」 アメリカにいたころ、お互いの家に泊まったときは、よく同じベッドで眠った。けれどそれはもう一年も前のこと。が、事故に会う前のこと―――― 「――いいの?」 本当なら飛びつきたいところを押さえて、リョーマは聞いた。 「リョーマなら」 その答えにリョーマは躊躇いを捨てて飛びついた。相変わらずに笑顔はなかったけれど、それでも、は昔ののままだ。 (の笑顔は俺が取り戻してみせる――は、俺が守るんだから) 早く背伸びをしなくても済むように牛乳をいっぱい飲まなきゃと思いながら、リョーマはの頬にキスをした。 |