目を閉じると見たくない夢を見るんだ。
でも目を開けても、見たくない現実しかない。
だからもう、なにも見ることができないんだ。




その手と声と 5




 その日はジュニアの大会の日だった。
 リョーマはすでにその大会に三度出場し、優勝していた。リョーマの四度目の優勝がかかったその大会に、も初めて出場登録をした。
 がそれまで大会に出なかったことに、理由があったわけではない。
 がテニスを始めたのは、リョーマと出会ったからだ。一生懸命テニスをするリョーマの相手をするために、一緒に南次郎から教わった。だからは、リョーマや南次郎と楽しくできれば、それで満足だったのだ。もちろん、ふたりと打ち合えるようになるには、それなりにきちんと練習をしなければならなかったけれど、できなかったことができるようになって喜ぶリョーマを見るのは楽しかったし、自分もそのリョーマの相手をしたかったから、練習も苦ではなかった。
『お前も一度くらい大会に出てみたらどうだ、?』
 南次郎にそう言われたとき、は断るつもりだった。はリョーマと南次郎としか打ち合ったことはないし、試合はリョーマとしかしたことがない。その上、その試合に一度も勝ったことのないのだから。そんな自分が大会に出ても負けるだけだ。けれど、がそれを口にする前に、南次郎が言った。
『知ってたか? 現時点での実力なら、お前のほうが上だぞ。アイツを成長させるには、甘やかすだけじゃダメなんだがな』
 は、リョーマに勝ったことは一度もない。いつも接戦の末に負ける。けれど、手を抜いていたつもりはない。
『ああ、解ってるさ。お前がわざと負けてるなんて思ってねぇよ。ただ、。お前には勝ちたいって欲がねぇだろ? だからここぞというところでポイントを落とす。勝敗に拘るより楽しみたいってのは解ってるつもりだが、一度くらいはその力を試してもいいんじゃねぇのか。お前だって――テニス、好きだろ?』
(テニス、好きだろ――?)
 リョーマのために始めたようなテニスだったけれど、確かに、それだけで続けていたのかと問われれば、違う――気がする。確かに、それを確かめるためにも、一度くらい他の相手と試合をしてみてもいいのかもしれないと、は頷いた。
 リョーマと同じ大会に登録したからといって、リョーマと対戦することにはならなかった。リョーマが登録したのは12歳以下の部で、が登録することになったのは、16歳以下の部だったからだ。しかも試合の開始時間も違った。リョーマは午前中、は午後からだった。
『決勝戦だけ、見に来てくれればいいよ』
 朝から見にいくつもりだったにリョーマが言った。どうせ最初のほうの試合なんてすぐ終わっちゃうしと、受話器越しに笑い声を響かせながら。
『じゃあ、決勝戦に合わせて、お昼前に行くよ』
『帰りはふたつトロフィー並べて、一緒に食事しようよ。のおじさんとおばさんも見に来るんでしょ?』
 そんな会話をしたのが、試合前日の夜。
 その日は――それから、十二時間後のことだ。
 は大会会場へ向かう車の中にいた。父親が運転し、母親が助手席に座り、はラケットバックとともに後部座席へ。
『父さん! 急がないとリョーマの試合が始まっちゃうよ!』
『そう急かすな、
『ほんとにはリョーマくんが大事ね。今日だってリョーマくんの応援に行くんだか、試合に出るためにいくんだか、母さん解らないわ』
『そりゃ、決まってるよ。リョーマの試合のほうが大事。だから父さん、急いで』
『はいはい、解ったよ』
 それが、最後に聞いた父さんと母さんの声。
 父親がアクセルを踏む。
 スピードを上げた車は、横から飛び出してきた資材を積んだトラックを、避けることができなかった。
 突然襲ってきた衝撃。
 の身体は何度もシートに打ち付けられた。上下左右の感覚もない。何度も何度も、ぶつかっるうちに、痛みも解らなくなった。ようやく身体が止まったと思ったとき、耳鳴りがした。頭痛もした。座席と座席の、狭い間に挟まれていてるようだった。手は動かせなかった。足の感覚もなかった。
 ようやく首を動かすことができたに見えたのは、自分の上に転がっている、血まみれの父の腕時計と――手。
 助手席に座る母親の身体――その、顔があるはずの部分に刺さる、何本もの鉄パイプ。
 
 赤い――赤い記憶。

(――――!)
 目を開けたとき、は自分がどこにいるのかわからなかった。そもそも、目を開けているのかさえわからなかった。パニックに陥りそうになったを寸でのところで止めたのは、隣から聞こえる規則正しい寝息と、熱すぎるくらいの体温。
 ここがリョーマの家で、同じベッドに寝ているのだということを思い出して、ようやくは体中の力を抜いた。
 ハッ、ハッと自分のものとは思えない荒い息が繰り返され、身体が震えている。力を入れていた間、呼吸することを忘れていたらしい。何度か繰り返すうちに呼吸は落ち着き、身体の震えも治まってきた。再び訪れた静寂に、リョーマの微かな息遣いだけが聞こえてくる。
 はそっと手を伸ばして、温かいリョーマに触れようとした。抱きしめたかった。抱きしめてもらいたかった。
(――――!)
 そのとき、一瞬の残像のように、赤い記憶がリョーマと重なった。血まみれで倒れているリョーマ――違う、そんなことにはならない。リョーマが眠っている、この世界が現実のはずだ。なのに怖い。触れるのが怖い。そんなことにはならない。でもリョーマが――リョーマまでいなくなってしまったら…………
 リョーマのことは大事だ。
 母さんのことも大事だった。
 父さんのことも大事だった。
 それは比べられるものではなかったはずなのに、結果として、選んでしまったのだろうか……?
(違う、選んでなんかいない)
 ――じゃあ、車を急がせたのは?
(それは、そんなことになるなんて思ってなくて――)
 ――同じことをリョーマにしないと、言える?
(それは――……)
 ――父さんもいない。母さんもいない。どうしてひとり、そのまま生きているんだ?
(それは――それは――……)
 ――選んじゃいけない。大事だと思っちゃいけない。なにもかも捨ててしまえば、楽になれる。
(オレは、楽になりたいわけじゃ……)
 ――じゃあ、どうしたいんだ?
(どう、すれば、いいんだろう……)
 ――ほんとうに、このまま?
(ここにいても、いいの――?)
 カーテンから漏れる街灯の明かりで、ようやく暗闇に目が慣れてきたは、室内を見ることができた。
 まだほとんど空のままにされているタンスと机――その机の上に、昨日来ていた服がたたんで置いてある。洗濯して、解るようにここに置いていったのだろう。
 は隣で寝ているリョーマを起さないように、そっとベッドから降り、パジャマを脱ぐと、置かれていたシャツとパンツを身につけた。着替え終わってから振り返ると、リョーマは変わらずに軽い寝息をたてながら熟睡していた。
 静かに、眠るリョーマに近づき、屈むと、はその額にそっと唇をつけた。
(このまま――ずっと――夜が、明けなければいいのに……)
 リョーマの柔らかい髪を撫でると、は静かに部屋を出て行った。はすでに、自分の衝動や行動を理解することを放棄していた。


 手塚は、すでにスクリーンセーバーに切り替わってしまったパソコンの画面をじっと見つめていた。自室でひとり、すでに電気も消して眠るだけの状態にしておきながら、手塚は立ち上がることができずにいた。
 夜はすっかり更け、深夜も微妙に過ぎ、早朝に入ろうかという時間――睡眠をとらなければ学業にもテニスにも差し支えることは解っていたが、それでも手塚はベッドに入ることができなかった。いや、入っても、眠ることはできないだろう。
 手塚をずっと考え込ませている原因――それは、乾から届いた一通のメールだった。
について、簡単に解ったことを添付ファイルにしておいた。開くも捨てるも、手塚の自由だよ』
 それから――手塚は添付ファイルを開くことも、捨てることもできずに、この状態なのだ。
 手塚が迷っているのは、知ってしまったら、知らなかったときには戻れないということ。一度知ってしまったら、たぶんきっと、歯止めが利かなくなる。いまでさえ、自分らしくない行動を繰り返しているというのに。
(そうだな。もう――手遅れだ)
 意を決して、手塚はカーソルを添付ファイルに合わせた。
 それは小さな新聞記事を拡大コピーしたものの、画像ファイルだった。その見出しには、こう書かれていた。
『アメリカ、ロサンゼルスで交通事故。日本人夫妻即死』
 その日付は去年のものだ。小さな記事で、簡単な文章しかついていなかったから、すぐに読むことができた。
『テニスの大会に出場する息子を乗せて、会場へ向かっていた夫妻が暴走したトラックに追突される。夫妻は即死。息子は一命を取りとめた。死亡したのは――』
 死亡したふたりの名字は「」だった。一命を取りとめた息子の名前までは記事に載っていなかったが、それが、あの「」のことなのだろう。
 フウッとため息をついて、眼鏡を外す。指先でまぶたを押さえ、知ってしまった事実を噛みしめる。
 やがて、手塚はジャージに着替えて、まだ暗い外へ出て行った。
 いつもランニングするのは、もう二時間はあとのことだ。トレーニングのために出てきたのではなく、身体を動かすことで、少しの間考えることをやめたかった。
(たの、しい――?)
 思い出されるのは、何度もそう聞いてきたの表情。
 記事からすれば、トラックの運転手の過失なのだろう。けれど、大会に出るのは彼だったのだ。自分がテニスをやっていなければこんなことにはならなかったと、考えたに違いない。彼が悪いんじゃない、テニスが悪いんじゃない――そうと解っていても、感情がついていかないのだろう。
(それでも――それでも俺は、あいつにテニスを続けて欲しい)
 一緒に会場にいくほど、の両親はのテニスを楽しみにしていたのだろうから。
 まだ暗いなか、街灯の下を走りながら、手塚はそう願っていた。無心になることなどとてもできそうになかった。暗いせいか、やけに鮮明に、の表情や一瞬のプレーが思い出されてしまうのだった。
 だからそのとき、手塚はそれが自分の作り出した幻覚なのかと思った。
 足を止め、それがとぼとぼと近づいてくるのを、じっと待っていた。
……」
 まだ現実なのかと思えなかった手塚が、すれ違いざまにそう呟いても、は気づく様子もない。
――!」
 手塚は慌てて振り返り、その手首を掴んだ。驚くほど冷たかったが、目の前にいる人物は幻覚などではなかった。
「こんな時間になにを――」
 思わず口にしてから、自分もこうして外に出ている以上、他人に言えた台詞ではないと気づく。けれど、こんな時間ではなくても声をかけずにはいられなかっただろう。まるで、その瞳には、なにも映っていないかのようだった。
 掴まれている腕をゆっくりとたどっていくようなかたちで、が顔を上げる。目が合っているはずなのに、手塚のことを見ていないようだった。
――」
 もう一度手塚が名前を呼ぶと、初めて気づいたというように、がまばたきを繰り返した。
「て、づか――」
 名前を口にして、それから思い出したように、手塚に掴まれている腕を引いた。
 もともと強い力で掴んでいたわけではなかったので、の手首はそのまま手塚の手の中から抜けていった。
 手が落ちるのと一緒に俯いてしまったに、手塚はなおも声を掛ける。
「なにか――どこか捜してでもいるのか?」
 ゆるゆるとは左右に首を振る。
「家に帰るなら、送っていくが」
 もう一度、は首を振った。
「そうか――」
 取り付く島のないの様子に、手塚は眼鏡を押し上げながらそう答えるしかなかった。
 がリョーマに言われた『部長にはあまり近づかないで』を素直に実行しようとしていることなど、手塚が気づくはずもない。
「気をつけて帰れ」
 それ以外に言うべき言葉を、手塚は見つけられなかった。
 がコクリと頷く。
 そして再び、どこへ向かっているのか解らないが歩き出そうとしているその背中に、手塚はもう一度声をかけていた。
――頼みがある。今度俺と試合してほしい」
 手塚の声に、は足を止めて振り返る。
「どう、して――?」
「お前のプレーに興味があるからだ」
「オレは、したく、ないよ……」
 俯いてしまったに手塚が言えることはもう、ない。
「そうか、すまなかった。また、学校で」
 手塚はに背を向けて、ランニングに戻るしかなかった。
 顔を上げたには、手塚の背が街灯の届かない先へ消えるのが見えた。
「手塚……」
 呟いたの声が、手塚に届くことはなかった。