どうして目で追ってしまうんだろう。
どうして喋るのが苦痛じゃないんだろう。 どうして、こんなに心地いいんだろう。 その手と声と 6 「てづか……」 がその名前を呟いたのは、去っていく背中を呼び止めるためではなかった。さっきまでここにいた人物が、もう街灯の照らす範囲から消えて見えなくなってしまった――その事実をようやく受け止めただけだ。 『手塚がいた』 にとっては、ただそれだけのことだった。けれどそれは、あの事故以来初めて、覚えさせられたわけではなく、自然と覚えていた名前だということに、が気づく余裕はなかった。 消えてしまった道の先を眺めていても、なにも変わらなかった。 やがては再び歩き出した。手塚の消えたのとは逆の方向へ。だからといって、はなにかを目指して歩いていたのではない。にはもう行きたい場所はないし、戻る場所もない。捜している人はいるけれど、もう会えることはない。ただひとつ、を現実へ繋ぎとめていたリョーマの存在から逃げ出したいま、はもうなにも望んでいなかった。 リョーマのことは大事。とても大切。 だからこそ失ってしまうことの恐怖に、は負けてしまった。なにも望まない世界は、なにも存在しないのと同じこと―――― はただ歩いていた。自分でも、なにも解らないままに。 やがてその足は、大通りへ出る。昼間は交通量が多いその通りも、もうすぐ明け方というような時間帯では、車どおりもまばらだ。だが、まったく走っていないというわけではなく、しかも空いているからこそのスピードを出して通り過ぎてゆく。 は顔を上げて通りを見た。その視界には確かに近づいてくるヘッドライトが見えた。けれどは大通りを横切るように足を踏み出した。 にとって、見えているのはただ車が近づいてくるという事実だけ。 それがもたらす結果を予測することができないだけのこと。 死にたい――などという感情すら、もうには残っていなかった。 一歩、そしてまた一歩。は街灯の照らす大通りへと足を踏み入れていく―――― 「なにをしているっ!」 の腕を背後から掴んで歩道へ引き戻したのは、手塚だった。程なく、スピードを上げた車がふたりの目の前を通過していく。 手塚は、と別れたものの、やはりその様子が気になって戻ってきていたのだった。後をつけるなんて、らしくないことをしていると、何度も引き返そうと考えながらの行為だったけれど、躊躇いもなく車道に進み始めたの姿を見たとき、そんな考えよりも身体が反応し、飛び出してていた。 「!」 掴んでいた腕にさらに力を入れ振り向かせ、力強くその名前を呼ぶ。逆らうことなくは身体を手塚のほうへ向けたけれど、顔を上げる様子すらない。まるで、手塚の声が聞こえていないかのようで。 「! !」 思わず両方の肩を掴みその身体を揺すっても、反応はない。その瞳にも、なにも映していないかのようだった。 「……」 手塚にはどうしたらいいのか解らなかったが、この手を離すつもりはなかった。とりあえず、このままここにいてもいいことはないだろうと、の手を引いてこの場を去ろうとした、そのときだった。 ふたりの背後を猛スピードで通り過ぎていったトラックがかけた急ブレーキは間に合わず、轟音とともに歩道へ乗り上げ、電柱にぶつかり、壁を擦り上げ、やがて停止した。 ふたりからは100メートルは離れた先の出来事だった。けれど夜明け前の静かで冷たい空気を引き裂いたその轟音は、目の前で起こったことのように響いた。 手塚の視線の先で、運転席のドアが開き、運転手らしき男性が額を抱えながら降りてくる。どうやら無事らしい。音を聞きつけた近隣の住宅の窓に明かりが点いていく。トラックは炎上しているわけでもなく、いち早く駆けつけたらしい他人の影も見えた。自分にできることはなさそうだと、手塚が安堵したときだった。 「あ…あ…ああ……」 繋いでいるの手から、伝わってくる身体の震え。振り返った手塚の前で、が目を見開いてなにかを見ている――ここではない、なにかを。 「いや……いやだ……」 力なく呟かれる言葉と、震える身体。その瞳に浮かんでいるのは、紛れもなく恐怖。 「いや……父さ…、母さん……」 漏れ聞こえた言葉に、手塚は直感した。が事故の記憶のなかに囚われたのだと。 「! しっかりしろ! !」 「助けて……誰か、助け……」 手塚の呼びかけも聞こえてはいない。はただ言葉を繰り返し、ゆるゆると首を左右に振るばかりだ。 「助け…て…、父さ…、かあ、さ……」 もう声にもならず、息を搾り出すように、それでも必死に口を動かすの、その見開いた瞳から溢れ出した涙に、手塚は堪えきれずその細い身体を抱き寄せていた。 「――」 耳元で名前を呼ぶ。こんなときにどんな言葉をかければいいのか分からない。どんなに彼の望みを叶えてやりたくても、手塚には彼の両親を助けることはできないのだから。 その上、両親が健在な自分では、の辛さを理解してやることもできない。 けれど戻ってきて欲しい。ここに――手塚の前に。いまの手塚にできるのは、ただ抱きしめる腕にいっそうの思いを込めて名前を呼ぶことだけ。 「――」 落ち着いて欲しい。戻ってきて欲しい。その目で俺を見上げて欲しい――手塚の思いが通じたのか、次第にの身体の震えが治まってきた。 その唇が微かに動き、「だ」「れ」という言葉を形作ったけれど、声にならなかった言葉は、手塚の耳には届かない。 やがて完全に震えが止まるのと同時に、は意識を失った。 口元に手を掲げて、その呼吸が規則正しいのを確認して、手塚はの身体を背負って歩き出した。そろそろ人だかりもできているようで、このままここにいるわけにはいかなかったというのもあるし、とにかくを楽にしてやりたかった。 力なく倒れたの身体は、重いのかと思ったがそんなことはなかった。 途中にあった公園のベンチで寝かせようかとも思ったのだが、まだ陽も昇らないその場所は冷たそうで、を寝かせるのに相応しくないと判断した。歩き続けた結果、手塚はを背負ったまま自分の家へと帰って来た。 ようやく空が白んできた時間で、早朝の鍛錬のために起きてきた祖父、国一とすれ違う。背中に、明らかに意識がないと分かる少年を背負った孫の姿を見て、国一が怪訝そうに呼び止めた。 「国光?」 説明を求められているのは分かったが、詳しく説明できることではないし、その時間も惜しかった。 「友達です」 それだけの答えに、なにかもっと事情を話すよう求められるかと思ったのだが、国一は「そうか…」と頷いただけだった。それどころかもう一度手塚の背中を見て「早く休ませてやりなさい」とまで言って、鍛錬のために外へ出て行った。 不思議に思いつつも、とにかくその通りを休ませるほうが先だと自室に入り、自分のベッドに横たえさせる。そのとき初めて、手塚は祖父の言葉の意味が分かった。 意識のないはずのの瞳から、涙が零れていた。 「……」 思わずベッド脇にひざまずいてその涙を拭う。手塚の親指をしっとりと濡らしたそれは、止まることなく再び滲みだす。 現実だけでも辛いはずなのに、夢の中でまで辛い思いをして欲しくなかった。 手塚は布団からの手を取り出すと両手でしっかりと握り、一緒に自分の額に押し当てて祈った。 「……戻って来い。――!」 掛ける言葉を持たない自分がもどかしい。の助けになってやれない自分が。それでも、掴んでいるこの手を離すことはできず、ただ、名前を呼び続けた。 「……」 どのくらい時間が経ったころだろうか。手塚が握り締めていたの手が、ピクリと動いた気がした。手塚は顔を上げ、を窺う。変わった様子はないようだが――手塚は、の手を握り締めていた両手から左手だけ外し、そっとの目元へ伸ばした。 再び手塚の親指をしっとりと濡らしたが、もうその瞳から溢れ落ちてくるものはなかった。 「――」 手塚の声に、のまぶたが震えた。 開かれた瞳は、ゆっくりとまばたきを繰り返す。 「だ、れ……? だれか、いる、の……?」 ぼんやりと、うわ言のように呟かれる言葉。 「手塚だ。手塚国光だ」 答えて、手塚は両手での手を握りなおした。 「て、づか……」 「ああ」 手塚が握り締めているの手の指先が動く。それを確認するかのように、の顔がゆっくりと手塚のほうへ向いた。 「手塚……」 「ああ」 の声に、手塚は答えた。けれど手塚に向けられているはずのその瞳は、明らかに焦点が合っていない。 「……父さんと、母さんが、いないんだ」 ぼんやりと呟くは、まだ現実と夢の狭間をさ迷っているようだった。手塚は一瞬躊躇したが、でも嘘はつけない。しっかりとの掌を握り締めたまま「ああ」と頷いた。 「なのに、朝は来るんだよ」 「……ああ」 「父さんと母さんには、もう朝は来ないのに」 「……ああ、そうだな」 「父さんと母さんはもういないのに、どうして世界は変わらないのかな……」 そのとき、手塚は初めてと会ったときのことを思い出した。 『The world never change. A morning comes. I can find out no meaning to play tennis.』 世界は変わらない。朝はまた来る。何事もなかったかのようにめぐる世界に、彼は必死で両親を留めようとした。事実を受け入れはしたが、納得できない感情が無意識のうちに彼をそうしたに違いない。だからこそ、彼は感情を殺してしまった。テニスをすることにも、なんの意味も見出せないほどに。 「……いや、変わっただろう?」 手塚は低く言った。 「変わ…た…?」 手塚の声に答えながらも、の瞳は手塚を見てはいないようだった。けれど手塚は告げた。事実を。事実だけを。手塚に言えることは事実だけなのだから。 「ああ、変わった。俺と、お前が、出会った」 がここにいる。 手塚がここにいる。 の両親が死ななければ、いまこうしてここに一緒にいることはなかっただろう。がテニスを続けていれば、いつか未来で会うこともあったかもしれないが、それでもこんな気持ちになることは、決してない。 「てづか、と……」 「ああ。お前の両親が亡くなったことで、お前の世界は変わった。そして、俺の世界も変わったんだ」 だから、受け入れて欲しい―――手塚は握っているの手を離す気はなかった。 ゆっくりとまばたきを繰り返したの顔が、不意になにかを見上げるように、天頂を向いた。そして、閉じられてしまったの瞳から、涙が一粒だけ零れた。 「そう、か……」 それきりは黙ってしまった。 手塚ももうなにも言わなかった。これ以上言わなくても大丈夫だと思った。 手塚と繋がっているこの手を、は確かに握り返したのだから。 静寂を破ったのは、控え目なノックの音だった。 手を離したくはなかったけれど、流石にその状態で扉までたどり着けるはずはなく。手塚はゆっくりと手の力を抜いて、の手をベッドの上に下ろすと、立ち上がって扉を開けた。 そこに立っていたのは母親である彩菜だった。 「お祖父さまから国光のお友達が来てるって伺ったのだけれど、お友達の分も朝食用意していいのかしら?」 「ちょっと待ってください」 手塚が振り向くと、はベッドの上で身体を起しているところだった。 「ここ、どこ?」 戻ってきた手塚に、が問う。 「俺の家だ」 「手塚の――」 考え込んでいる様子だったが、手塚はあえてそれには答えずに続けた。 「朝食、食べていくか?」 その言葉には、は考え込まずに首を左右に振った。 「帰らないと。リョーマが心配する」 「そうか」 手塚は素早く、扉の前で待つ母親に断りをいれ、再びの元へ戻る。 「送っていこう。歩けるか?」 「うん、たぶん」 立ち上がったを連れて、玄関へ向かう。先に靴を履いて扉を開けて待っている手塚を、靴を履いたのに歩き出さずにいるがジッと見返していた。 「どうかしたか?」 「歩けないって言ったら、どうなったのかと、思って」 「背負うが」 「……言えば、よかった」 相変わらず、は子供のように単語をつなげるだけの喋り方をしていたが、それでも格段に変化していることに手塚は気づいていた。口を開く回数が、明らかに増えているのだから。 「解った」 手塚はに背を向けてしゃがんでみせた。 「――いいの?」 「ああ」 背後から腕を回してきたを、手塚は背負って歩き出した。 「……暖かいね、手塚」 「お前もな」 おぼろげな街灯は消え、昇りきった朝日が周囲を照らしていた。肌に触れる空気はまだ冷たかったが、やがて暖かくなるだろう。ゆっくりとでも陽は昇っていく。地球は止まることなく動いているのだから。 「ね、手塚……」 手塚の耳元で聞こえる声は、少し眠そうだった。 「なんだ?」 「テニス、しようか――?」 思わず手塚は足を止める。けれど次の瞬間、口にしようとした名前は、別の声によって遮られた。 「――!」 名前を呼びながら必死で走ってくる、小さな姿。 「……リョーマ」 呟いたを、手塚は背中から下ろした。 駆け寄ったリョーマは、の隣に立つ手塚を一瞬で睨みつけると、に抱きついた。 「、どうして――」 問い詰めようと顔を上げたリョーマも、 それを見ていた手塚も、 その光景に動けなくなった。 「ただいま、リョーマ」 抱き寄せるようにリョーマに腕を伸ばしたは、日本にきて初めての笑みを見せた。
END
back to index *あとがき* まだ時間はかかると思いますが、これをきっかけに少しづつ周囲を受け入れていけるようになると思います。でも手塚はヘタすると恋人というよりパパの立場になってしまいそうですね、年下なのに(笑) →長いあとがきを読む |