「消える、言葉」 前編




 商談を終えた手塚国晴は、乗り込んだタクシーでそう遠くない外資系のホテルの名前を告げた。酒好きの相手の接待でよく使っているそのホテルのバーは、今回は出番がなく、仕事がひと段落したら、国晴にとって、もうひとりの息子のような存在が働くその場所に顔を出そうと決めていた。
 久しぶりに足を踏み入れたそこは、明るすぎない照明とゆったりと流れるピアノの生演奏が作り出す落ち着いた空間であることに変わりはないのだが――今日は少々、雰囲気が違う。その理由にすぐに気づいて、国晴はカウンターに近づいた。
「今日はずいぶんと盛況だな」
 国晴の目の前にあるカウンター席はすべて埋まっている。もともとカウンターのスツールの数は多くなく、一ダースほどで、壁に沿った小ぶりのテーブル席のほうが多い作りなのだが、いまはテーブル席が空いているのに、カウンターの席はすべて埋まっているのだ。
「そう、みたいですね」
 曖昧な、けれど楽しんでいるような雰囲気で、カウンターの向こうのがグラスを拭きながら答えた。
「なにか一杯だけもらえるか?」
「いいスコッチが入ってますけど?」
 の言葉に頷いて、国晴はテーブル席のほうへ向かった。その背中にカウンター席に座るすべての男性からの視線を受けていることに気づきもせず。
 壁際の奥まった席に腰を下ろした国晴に、カウンター席に座っていた外国人の男性が、自分のグラスを片手に持ちながら近づいた。

「Excuse me,sir.I heared someone kissed him in HERE...are you his lover?」 (すみません、ここで彼とキスしてたって……アナタが彼の恋人?)
 見知らぬ外国人は立ったまま、国晴を見下ろしながらいきなりそう問いかけてきた。
「If...that's true, I am very honorable. But, it's not me.」(もしそれが本当なら光栄だがね……違うよ)
 国晴は視線を逸らすことなく、ゆったりと笑いながらそう答えた。
「……困ったことに、俺のよく知っているヤツのことのようだがな」
 ぼやくように付け足した言葉は日本語だったので、外国人には理解できなかったようだ。

「What?」
 国晴が『Nothing.(なんでもない)』と口にする前に、ふたりの間の、テーブルの上に伸びてきた細い腕がコースターを置き、グラスを差し出した。グラスの中の氷が、カランと小気味よい音をたてる。
 グラスから手を離したは、外国人に向き直って尋ねた。

「Did my Father do anything at you? 」(ぼくの父がなにか?)
「Your Father !?」
「Yes, aren't he and I alike? I wanted to glow up like my Father.」(そうです、似てませんか? ぼくは父さんみたいになりたかったのに)
 驚いている外国人に、は楽しそうに微笑んで告げる。その意図を正確に察して、国晴も口を挟んだ。
「You resemble your Mother.」(お前は母さんそっくりだからな)
 驚いて二の句がつげずにいるらしい外国人に、はベストの内ポケットから一枚の写真を取り出して、見せた。そこには、五歳のを膝に抱えたの母と、国晴によく似た男が写っているのだ。の年齢からしてずいぶんと以前の写真であるのに国晴の外見が写真とさほど変わっていないのは、東洋人は総じて若く見えるという外国人の視点からすれば、気づくことではないだろう。
「Ah, I see. Sorry to bother you. Have a Good Night.」(そうでしたか、お邪魔してすみません。いい夜を)
「You too.」
 国晴は笑いながらそう答えて、外国人がひとりでカウンターへ戻るのを見送った。
「どうやらうちの鉄面皮がやらかしたらしいな?」
 日本語で、国晴はそう尋ねた。
「鉄面皮って……息子さんでしょうに」
 まだその場に残っているがそう答える。
「息子だから言うんだよ。まぁ彩菜に言わせれば、あんな無表情に見えても笑ってるときもあるらしいんだが、俺にはさっぱりだよ」
「そりゃあ、国光くんだって笑うでしょう」
「お、くんにも解るのか?」
「……秘密です」
 微笑んだに、国晴もくちびるの端を上げ皮肉げに笑うと、グラスを手にした。
「ところで、迷惑をかけてしまったみたいだが、大丈夫か?」
「アレなら、一週間もすれば収まると思いますよ」
 チラリと、がずらりと男性が並ぶカウンターへ視線をやった。もちろんそこには先ほどの外国人が戻っている。
「そうか、それならよかったが……なにか仕返しがしたいなら、協力するぞ?」
 国晴は乾杯でもするかのようにグラスを掲げてから口をつける。「美味い」と一言もらした国晴に、は満足そうな笑みを見せた。


 彩菜が眠そうに、祖父国一と息子国光を迎えるのはいつもの朝のことだったのだが。
「ごめんなさいね、国光。今日はお弁当作ってる暇がなかったの。お昼はこれでね」
 母親が差し出してきた封筒に、手塚は眉を顰めた。
「そんなに怒らないで。残りは好きに使っていいから」
 怒っているというほどではなかったが、そう言われると文句のひとつも言えなくなる。
「解りました」
 手塚は封筒を受け取って鞄にしまった。
 そして昼休み――しっかりと封がされていることを訝しく思いながらも、開けた手塚の手が取り出したものは、予想していた千円札ではなかった。
「どうかした、手塚? そのテレホンカードが、どうかしたの?」
 昼食を買いに行こうとしてつかまった――3−6コンビのひとり、不二がそう尋ねてきた。
「いや……」
 確かに自分の見間違いなどではなく、これはテレホンカードなのだと手塚は思う。学食でテレホンカードが使えるという話は聞いたことがないし、まさかこれで出前を取れということでもないだろう。母親が間違えて入れたとしか思えない。
 ただひとつ気になる点といえば、その白いテレホンカードには手書きで、携帯電話の番号と解る数字が記入されているのだ。だが、その電話番号に心当たりはなかった。
「……これで昼食を買えと渡されたんだが、どうやら間違えたらしいな」
 手塚の答えに、菊丸が楽しげに手塚の手元を覗き込んだ。
「どれどれ〜。あ、電話番号が書いてあるじゃん! ここに電話しろって意味じゃないのかな〜?」
「知らない番号だ」
 掛ける気はないという意味で手塚がそう答えたのに、菊丸には通じなかった。
「じゃあ、掛けてみればいいにゃー」
 素早くポケットから携帯を取り出した菊丸は、その素晴らしい動体視力を発揮して、手塚の手のなかのテレホンカードに書かれた番号を読み取ると、ボタンを押した。
「おい――」
 制止しようとする手塚に菊丸は背を向ける。不二はもとより止める気はなく、微笑んで見ているだけだ。
「あ、かかった」
 菊丸の声に、手塚も思わず聞き耳を立てる。
「俺は青学三年、菊丸英二っでーす! …………え? 国光くん? ……あ、なんだぁ、手塚のことかぁ。ほーい、ちょっと待っててくださーい」
 そう言い終えると、菊丸は手塚に携帯電話を差し出した。
「誰なんだ?」
「あ――名前は聞かなかった。でも手塚の知り合いっしょ? “国光くん”って呼んでたし」
 その言葉に、手塚は奪うように菊丸の携帯電話を取った。そんな呼び方をする人物を、手塚はひとりしか知らない。
「……もしもし?」
 不機嫌そうに、手塚は口を開いた。
『やぁ、久しぶり』
 電話越しの声ではあったけれど、手塚がその人物の声を聞き間違えることなどなく。
 なぜいま彼と電話が繋がっているのか――考えていた手塚の耳に、再びその声は響く。
『やだなぁ、国光くん。ぼくのこと、また忘れちゃったの?』
さん――」
 からかうような明るい声に、手塚は呆れるように、低くその名前を呼んだ。
「なんなんですか、これは?」
『なんなんでしょーねー?』
 返ってきた声は変わらずに愉しげだ。
――!」
 咎めるように、手塚はもう一度その名前を呼んだ。
 いまだ、さん付けで呼んだり呼び捨てたり、敬語を使ったり使わなかったりと、手塚のに対する態度は様々で定まらない。それは手塚自身が、を把握できていない証拠なのかもしれないが、自身が、手塚に把握されないようにしているからなのかもしれない。
『はいはい。お弁当の宅配だよ〜。きょうの国光くんのお弁当は、ぼくが作って持ってきました! いまぼくは青学の――えーっと、どこにいるんだろう?』
 そこまで聞こえたあと、不意にの声が遠くなった。
『すみませーん』
『なんでしょう?』
 電話機越しに微かにだが、が声を掛けた誰かとのやりとりが聞こえてくる。に答えているその声は手塚のよく知っているテニス部レギュラーのもので、手塚は菊丸の携帯電話を手にしたまま、走り出していた。