未来の刻を君と (前編) side YOU
それは八月十四日。まだ残暑も厳しい夏の日のことだった。
クーラーの効いた自室で本を読んでいたは、家のインターホンの音にそれを中断された。 本の脇に置いていた栞――薄い金属のプレートに桜の花びらの細工が施されているものだ――を挟んで、本を閉じようとして、は階下に母親がいることを思い出した。 再び本に目を戻そうとしたとき、母親が自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。 「青学中等部の――なんといったかしら、テニス部の方ですって。祐大ちゃんの後輩かしら?」 「え……」 階段を下りていった先にいた母親にそう言われたとき、脳裏に浮かんだのはただひとりの人物。は急いで母親の脇をすり抜け、玄関の扉を開けた。 そこにいたのは、間違いなく。 「て、づか、くん……」 望んでいた人物の名前は、思わず口から零れでていた。 「だだいま戻りました、先輩」 青学のレギュラージャージに身を包み、肩からラケットバッグを提げた手塚は、一分の隙もない姿で静かに頭を下げた。 レギュラージャージを着ている、ラケットを持っている――ということは、痛めた肩は完治したのだ。 中等部のテニス部が関東大会で優勝し、手塚抜きでも全国大会への出場を決めたことは、幼なじみの大和祐大から聞いて知っていた。 『もう一度、言わせてください。全国大会の決勝戦を、見に来ていただけませんか?』 治療のために九州に行く前日、は手塚からそう言われた。 その言葉を疑ったわけではない。手塚抜きでも勝てるチームだと信じているからこそ、彼はそれを口にしたのだと、にも理解できたから。 ただ、それは彼の望んだ形ではない。治療に専念しなければいけないことは解っていても、手塚は誰よりも戦いたいはずだ。 そんな彼の、チームからひとり離れての遠い地での生活が、辛いものになってはいないか――はそれを心配せずにはいられなかった。 けれど、すべてを終え、手塚は帰ってきた。こうして、の目の前に。 「お、おか……」 嬉しくて、声が震える。 ずっと思い描いていた、お帰りなさいという言葉が言える日が、ようやく来たのだ。 「。お友達なら、上がっていただいたら?」 背後から掛けられた母親の声に邪魔をされ、最後まで告げることができなかった。 けれどそれもそうだ、この暑い中、玄関先で立ち話をすることもないだろう。 「うん、手塚くん。よかったら、どうぞ」 「いいえ。挨拶に寄っただけですから。これから、全国大会の抽選会場へ向かいますので」 再び静かに頭を下げて、手塚は立ち去ろうとする。 「ちょっ、ちょっと待って」 反射的に、は彼を引き留める言葉を口にしていた。その声に従って、手塚が足を止めて振り返る。 抽選会場へ向かうという彼を、この場に止めておくことはできない。それは解っていた。 だとしたら、方法はひとつ。 「母さん! ちょっと出てくる!」 慌てて背後の母親へ告げると、は靴を履いて玄関を飛び出した。 「ごめん! あの…、駅まで――駅まで、一緒に行かせて」 そう言ったを、手塚はじっと見下ろしている。やはり、迷惑だっただろうか。 「ぼくの足に合わせて歩いたら、遅れてしまう? あ、駅に行くんじゃない、とか」 竜崎先生あたりがこの先の道で車を停めて待っているのかもしれないと思い立って、は焦りながら周囲を見回す。 「いえ、駅へ向かいます」 手塚は静かに口にすると、眼鏡のブリッジを押し上げた。 「気を遣わせてしまって、すみません。抽選会が終わってから、ゆっくり挨拶に来ようと思っていたのですが…」 珍しく言い淀んだ手塚の言葉の先を、はそっと見つめながら待った。 「東京に帰ったことを、いちばん先にあなたに報告したかった」 手塚の切れ長の瞳が少しだけ細められ、唇が微笑みの形をつくる。 「あ――」 彼の口から告げられた言葉と、その微笑みと。頬がかぁっと熱を持つのは、強い日射しのせいではない。 本当に手塚は戻ってきたのだ。全国大会に間に合うことが出来た。 彼は、またあのコートに立つ。 それはなによりも嬉しいこと。 「お帰りなさい、手塚くん」 微笑みとともに、は自然とその言葉を手塚に贈ることができた。 side T 普通に歩いても十分程度の駅までの道のりは、あっという間だった。 隣を歩くのペースに合わせて、手塚はいつもよりゆっくりと足を進めていた。 「あの、手塚くん。誕生日プレゼント、ありがとう。とっても綺麗な栞、大事に使わせてもらっているよ」 手塚は一度だけ、へ手紙を送った。彼の誕生日に届くように。 「大したものではないですが、気に入っていただけてよかったです。ただ、あれを見たとき、先輩に似合いそうだと思ったので」 先輩の白くて細い綺麗な指に、と思ったことは、さすがに手塚も口にすることはできなかったが。 九州へ行ってから一週間、リハビリは順調で、肩の痛みも次第に取れていった。 これなら全国にも間に合う、練習も再開できると確信しながらの、医療センターからの帰り道、ふと目にはいってきた工芸品店で見つけた栞を、手塚はメッセージと共に送ったのだ。 その後、からお礼と励ましの手紙が送られてきた。 すべては順調だと、そう思っていた。 けれど二週間経っても、手塚の肩は上がらなかった。 どうなっているのかと、医師を問い詰めた。 彼から返ってきた答えは「医学的には順調に回復している。そろそろ上がるはずだ」というものだった。 自分は間に合うのか。との約束を守れるのか。 焦ったところでどうにもならないのは解っていながら、焦る気持ちを抑えられずにいた。 そんな時だった、ミユキと出会ったのは。 試合になるとイップスを起こしてしまうはずの彼女が、手塚の代わりにコートに入り、何度も何度も諦めずに、ひたむきにボールを追う姿を見ながら、手塚は思い出していた。 すっかり覚えてしまうほど読み返した、からの手紙を。 『 手塚くんへ 誕生日のプレゼント、ありがとう。とても綺麗な栞、嬉しかったです。早速使わせてもらっています。 この栞の桜を見て、手塚くんを初めて見たときのことを思い出しました。 桜が散っていた四月の初め、祐大に会うためにテニスコートに行ったとき、入ったばかりの新一年生たちが、コート脇で素振りをしていました。 もうかなりの回数をやった後だったんだと思います。明らかに疲れた顔をして、その単調な練習に飽きた顔をしながらラケットを振っている子たちがほとんどでした。 そのなかで、一回一回を丁寧に、真剣に振っている、とても綺麗なフォームが目についたんです。 決して手を抜こうとしない彼は、とてもテニスが好きなんだろうなと思いました。 それ以来、いつぼくがテニスコートに行っても、彼は真摯に練習をしていました。 まっすぐに、ただひたむきにテニスと向き合っている彼を見ると、自分も勇気がもらえるようで、ぼくはテニスコートに行って、彼の姿を見るのが楽しみになったんです。 手塚くんのテニスは、ぼくに力をくれていました。 いままで言えませんでしたが、改めて、感謝の気持ちを伝えさせてください。 ありがとう、手塚くん。 そしてこれからも、手塚くんのプレーは、ぼくに力をくれるはずです。 手塚くんの試合は手塚くんのもので、誰もその代わりをすることはできません。 手塚くんが全国大会の決勝戦のコートに立つ日を、待っています。 』 それまで手塚は、ただ試合に勝つため、自分が強くなるために練習を重ねてきた。 他人の素晴らしいプレーを見て、感動したことはある。ただそれは、彼らのようなプレーを自分もできるようになりたい、そして彼らに勝ちたいと、それだけだった。 目の前でボールを追っていたミユキは、お世辞にも上手いプレイヤーとは言えなかった。 けれど真剣に、ただひたすら、テニスをしていた。身体が動かなくなるほどの恐怖を、必死に押さえ込んで。 それは、手塚の胸をひどく熱くさせた。 二年前、の目に映っていた自分は、このミユキのようだったのかもしれない。 自分がテニスをすることで、がこんなふうに胸を熱くするのだとしたら、自分はこんなところで、立ち止まっている場合ではない。 自分以外の誰かに、の胸を熱くさせたくはないのだから。 手塚の足は自然にコートへと向かい、自分でも気づかないまま抱えていた恐怖を、乗り越えることができた。 「俺こそ、手紙を、ありがとうございました。おかげで見失っていた大事なものに、気づくことができました」 「だいじな、もの…?」 問いかけてくるの瞳に、手塚は九州での出来事を話そうとした。 「ええ、二週間ぐらい前だったと思います。医療センターの帰りに――」 赤信号のために止まって、気づく。駅はもう、この横断歩道を渡ればすぐだということに。 思わず手塚は言葉を切ってしまう。 もっと一緒にいたい――そうは思うものの、それを素直に口に出していいのかどうか、迷う。 手塚の迷いに、が気づいた。 「……もう、駅なんだ。早いね」 時間は待ってくれず、信号は青に代わる。人の波に合わせて、ふたりも歩き始めるしかなかった。 横を歩くの姿を盗み見る。 はっきりと見ることはできないが、少し俯いているその顔は、寂しさを浮かべているような気がする。 それは手塚の願望なのかもしれないが、でももし、それが本当なのだとしたら――ももっと、自分と一緒にいたいと思ってくれているのかもしれないのだとしたら――強引な提案を口にすることも、許されるかもしれない。 横断歩道を渡りきった改札の手前で、手塚はを振り返って言った。 「もしよかったら、抽選会場まで、一緒に行きませんか?」 誕生日の話(short dreamにある『思い描く日に』です)は番外編のつもりだったんですが、なにがネタになるか解りませんね。しかし誕生日を夏に限定する話を書いてしまってスミマセン。 |