未来の刻を君と (中編) side YOU
まさか自分がこんな衝動的だとは思わなかった。
「うん……、行く」 抽選会場まで一緒に行きませんかと言われた途端、はそう答えていた。けれどそのまま家を出てきて、定期券どころか財布も持ってきていなかったのだ。 「あ…ごめん。ぼく、急いで出てきてしまったから、なにも持ってきてなくて――」 慌ててそのことを口にすると、手塚はの手を掴んで、券売機の前まで連れて行った。 「俺が誘ったんですから、俺に出させてください」 「そんな、悪いよ」 止める間もなく、手塚はさっさと小銭をいれると、切符を買ってしまった。 「どうぞ」 本当にいいのだろうかという迷いはあったが、やはりもっと一緒にいたいという気持ちのほうが勝った。 「ありがとう」 は笑顔で手塚の差し出している切符を受け取った。 抽選会場である神奈川の立海大付属中学へ向かう電車の中で、は手塚から九州での出来事を話してもらった。 「……その少女は、獅子楽中で九州二翼のひとりと言われ、現在は大阪の四天宝寺中に在籍している、千歳の妹だったようです」 「そうなんだ、すごい偶然だね」 車内はクーラーが効いていたが、夏休みの時期だけあって人も多く、混雑していて、蒸し暑い。 けれどそんなことはまるで気にならなかった。静かだが、いつになく饒舌に語ってくれる手塚の間近に立って、その話を聞くことができたのだから。 電車を降りるとき、人波に押されそうになったの身体を、スッと伸びてきた手塚の腕が支えてくれた。 「大丈夫ですか?」 「うん、ありがとう」 そんな空気が、とても心地よかった。 さすがに抽選会場には関係者以外立ち入れないので、は駅前のコーヒーショップで手塚の帰りを待つことになった。 二人掛けの小さなテーブル席に座るの向かいには、アイスコーヒーのカップがもう一つと、携帯電話。 『すぐに戻ってきます。なにかあったら、ここに表示されている大石の番号に掛けてください』 財布すら持ってこなかったが、携帯電話を持ってきているはずはなく、手塚はそう言っての前に自分の携帯を置いていったのだ。 ここで待っていて欲しいと言われたとき、お金を持っていないは躊躇った。手塚は、そんなを促すように手を軽く掴むと、店内に入りアイスコーヒーを注文した。 先輩はなににしますかと手塚に問われて、『同じもので』と答えるのがやっとだった。 (手塚くんが、あんな強引だなんて知らなかったな……) 思い返して、の顔に笑みが浮かぶ。 のほうが先輩ということもあって、いつも手塚はに対して一歩引いたような態度を崩すことはなかった。 はテニス部ではないし、手塚と同じ委員会に所属したこともない。 ただの顔見知りの先輩後輩という間柄でしかないのだから、手塚のその態度も当然だと解っていても、やはり淋しく思っていた。 けれど今日は、その垣根を越えられた気がする。 (手塚くんと、親しくなれた気がする……) ぼんやりと外を見ながら、は手塚のことを考えていた。 (そういえば、手塚くんが見失ってた大事なものってなんだったんだろう?) 少女と出会って、恐怖を乗り越えたという話は聞いた。でもそれ以外にからの手紙で、と手塚が言っていたことを思い出す。 (帰ってきたら、聞かせてくれるかな。そうだ、それと――) 九州に行く前日、手塚はになにか言いたげだった。そのときのことも、聞いてもいいだろうか。 (手塚くんとは、話したいことが、たくさん、たくさん、ある……) 窓の外はジリジリと熱い日射しが照りつけている。クーラーの効いた涼しい店内で、は手塚が戻ってくるのをいまかいまかと待っていた。 「すまない、くん。ここ、いいか?」 手塚のことを思いながら窓の外を眺めていたは、それが自分に掛けられた声だと気づくのが遅れた。 「え――」 向かいの椅子に手を掛けている相手を見上げて、は言葉を無くす。 そこに立っていたのは、以前、に熱烈な告白をしてきた先輩だった。彼から逃げて、偶然にも手塚と再会したのは、三ヶ月ほど前のことだ。 と同じ青春学園高等部に通う彼が、なぜこんな場所にいるのか。 驚いてただ見上げるだけのに業を煮やしたのか、彼は椅子を引いて座ってしまった。そのときになってようやく、は状況を把握する。 「す、すみません。そこは、その……」 「ツレがいるんだろう? 相手が帰ってくるまで、いや――すぐすむ話だ」 そう言われては、それ以上反対することもできず、は突然現れたこの人物を躊躇いがちに見つめることしかできなかった。 「祖母がこの近くの病院に入院していてな、その帰りなんだ」 が問えずにいた疑問を彼のほうから話してくれた。 「通りかかったとき窓の向こうにくんの姿を見つけて、見間違いかと思ったよ。で――くんは?」 「え……?」 質問の意味が解らず、は聞き返してしまう。 「どうしてここに――って、聞くだけ野暮なんだろうな。ここに座るはずの相手と、デートなんだろう?」 一瞬、世界が止まった気がした。 「えっ? ええっ? あ、あのっ! そ、そそ――」 思ってもみなかったことを言われ慌てふためき、結局、そのまま俯いてしまう。頬が熱い。きっと真っ赤になっているだろう。 確かには手塚のことが好きだが、ただ手塚の用事についてきただけだし、なにより男同士なのだ。 なのにこんな反応をしてしまっては、あからさまにデートだと、彼の言葉を肯定してしまったことになってしまう。 だからといっていまさら『デートじゃありません』と言ったって、照れかくしだとしか思われないだろう。 それに確かに、は手塚のことが好きで、もっと一緒にいたくて、ここまで来たのだ。どんな形にせよ、好きな相手とふたりで一緒にいる――それはにとってのデートになるのかもしれない。 「あの、どうして……」 思い切って、は顔を上げて尋ねた。 「どうして、その……デート、だなんて、思ったんですか?」 簡単だよ、と彼は自分のアイスコーヒーを一口飲んでから答える。 「君は窓の外を楽しそうに眺めているのに、外の景色はまったく目に入っていなかった。現に、俺が通ったことなんて気づかなかっただろう? 誰か待っている相手がいて、そいつしか目に入らないんだろうってことはすぐ解る。それと――きみの表情が、それはもう幸せそうだったからな」 友達や家族を待っている人間はそんな表情はしないものだよ、と言われ、知らないうちには頬を染めていた。 手塚のことを思いながら――手塚が帰ってくることだけを待っていた自分は、どんな顔をしていたのか。 「会ってみたいな、俺の――ライバルだった相手に。いや、相手にすらされなかったんだから、ライバルなんて言うのもおこがましいな」 彼は笑って、自分のカップを飲み干すと「じゃあ」と立ち上がった。 「あ、あのっ!」 思わずは立ち止まって彼を引き留めていた。立ち止まった彼に、意を決して告げる。 「ぼくが、彼のことを一方的に好きなだけで――その、憧れるんです。彼の生き方、その姿勢、考え方……尊敬していると言ってもいいくらいです。だから、ぼくが彼に対して勝手に抱いている思いが、彼の邪魔になることが怖かった。でも、やっぱり――ぼくは、彼が好きで、彼のことを応援したいって、そう思うんです」 最初は、見ているだけでよかった。 手塚の姿を見つけると、とても嬉しくなった。 けれどいつからだろう。 もっと見たい。頑張っている彼の姿を、もっと近くで見たい。もっと、ずっと見ていたい――手塚を、手塚だけを。 そんなふうに思うようになっていたなんて。 『全国大会だけを、見に来てください。全国大会の――決勝戦だけを』 そう手塚に言われたとき、どんなに嬉しかったか。 見ていいのだ。が手塚の姿を見に行くことを、彼も望んでくれたのだ。 だとしたら。 見ていたい――手塚を。彼の傍で、彼を応援したい。彼が――望んでくれる限り。 「……心底羨ましいよ。きみにそんなふうに思われ、そんな顔をさせている相手が。くんのその気持ちが、相手に届くといいな」 「はい!」 素直に、は頷くことができた。 先輩が店を出て行くのを見送りながら、は再び席に座る。 そして、テーブルに置かれた手塚の携帯電話にそっと手を伸ばした。 彼の持ち物であるそれに、彼の姿を投影して、愛おしそうに指先で触れる。 (早く帰ってきて、手塚くん……) 静かに微笑むは、自分が店内にいる客や店員の視線を集めていることなど気づかないままだった。 |