叶う、思い 1




「おはようございます」
「おはよう」
 毎朝決まった時刻にきっちりリビングへ入ってくる手塚国光と祖父の手塚国一。少し眠そうな母親の彩菜が、それから朝食を用意するのが手塚家の常であったのに。
「おはようございます。お義父さん、国光」
 そう返した彩菜はすでにテーブルに朝食を並べているし。
「おはようございまーす」
 その並べられた朝食に手をつけながらそう挨拶を返してきた、見知らぬ青年が食卓についていたのだ。
 青年は座っていた国晴の椅子から立ち上がると、国一に頭を下げた。
「ご挨拶が遅れた上に、お先にいただいてしまっていてすみません。ぼくはと申します」
 頭を下げた青年の隣に立って、彩菜が楽しそうに言う。
さんはね、昨夜酔っ払った国晴さんをウチまで送ってくださったの。あまりに遅い時間だったから、お泊りいただいたのよ」
 一目ではしゃいでいると分かる彩菜の姿を見て、手塚は眉を顰めた。母親のはしゃぎ様にではなく、得体の知れない相手を泊めた短慮さについてだ。
 なぜなら、母親の横に立つその人物はどうみても二十歳そこそこだった。しかもその髪は、不二の髪型ををさらに切りそろえたようにすっきりとしたものだったが、不二よりもさらに明るい色をしているのだ。とても父親と同じ商社で働く人間とは思えない。その彼が、一体どういう経緯で父を送ってくることになったのか。
 祖父はどう思っているのだろうとチラリと隣に視線を走らせたが、祖父は「それは――国晴が迷惑を掛けましたな」と言っただけで席に着いてしまった。仕方なく手塚もいつもの席に着く。座りながら、国晴の席である左側に視線をやると、それに気づいたが軽やかに微笑んだ。その笑顔は、笑い慣れた人間のそれを思わせて、手塚は軽い不信感を覚えた。
「あ、彩菜さん。手伝いますよ」
 そう言っては立ち上がると、キッチンにいる彩菜の元へ向かう。すぐに彩菜がよそっていたご飯と味噌汁をお盆にのせて戻ってきた。まず国一の前に、そして手塚にと、彼は静かに器を置いた。ご飯を左側に、味噌汁を右側にと、躊躇いなく彼は正しい置き方をした。その無駄のない仕草といい、手塚はまるで店員に給仕されているような気分にさせられる。ますます彼の職業に疑問を抱いたが、してもらったことには違いないので「ありがとうございます」と手塚は軽く頭を下げた。
 彼は『どういたしまして』というようにニッコリと笑ってみせただけだったが、やはりそれも、慣れた仕草にしか見えなかった。
「今日の朝食はさんが手伝ってくださったから助かっちゃったわ。おかげでふたりが起きてくる時間に間に合ったし」
 楽しそうな彩菜が席につき、その日の違和感のある朝食が始まった。
「醤油を取ってくれ」
「はい、どうぞ」
「すまんな、くん」
 彩菜はともかく、の外見に一番眉を顰めそうな国一まで、なぜかすっかり馴染んでいる。不思議に思いつつも、余計なことだと判断し、手塚は食事を続けた。大根おろしの添えられただし巻き卵に、祖父からまわしてもらった醤油をかけて、口に入れる。美味しい――と思ってから、いつもと味が違うと気づいた。
「あら、国光。美味しくてびっくりしてるのね。そうなの、その卵はさんが作ったのよ。手際もよくてらっしゃるし、なんでもお出来になるのね」
「そんな……ちょっと興味があって、勉強したんですよ。お口に合って良かったです」
「ふむ、何事にも勤勉なのはいいことだな」
 国一もそう言って、見れば彼の皿の玉子焼きはすでになくなっていた。
「ありがとうございます」
 微笑むを見て、手塚もなにか言ったほうがいいのかと思ったが、なにしろこんなことは初めてなので、なにを言ったらよいのか分からない。
 手塚の視線に気づいたが、唇の端を少し上げて微笑んだ。それはなにも言えずにいた手塚の気持ちを汲み取ってくれたように思え、結局手塚はなにも言わないまま食事に戻った。
「ふわぁ……、おはよう、ございます…」
 盛大なアクビをしながら入った来たのは、当然、手塚家の最後のひとり、父、国晴である。その姿はいつもに増して気合が足りない。それでも祖父が怒鳴らなかったのは、客人がいたからというより、その客人であるがすぐに立ち上がったせいだろう。
「お先にすみません、国晴さん。ぼくはもう頂きましたので、こちらへどうぞ」
 食べ終えた食器を手にするに、彩菜も立ち上がる。
「あらあら、さん。片づけくらいわたしにさせてちょうだい。すぐにお茶を入れますから、さんはリビングのほうにいってらして」
「そうですか……すみません。ごちそうさまでした」
 そう言って、食器から手を離したに近づいてきたのは、国晴で。
「いやぁ、くん。昨晩はすまなかったね」
「いいえぼくこそ……、泊めていただいたりして、あの、かえってご迷惑をかけてしまって……すみません」
 手塚はふと、箸を止めた。の言葉にも声にも、先ほどまでの完璧な営業スマイルやトークと思える節が感じられない。それどころか――思い当たることがある。手塚に声を掛けてくる下級生の態度と、似ているような気がするのだ。
『手塚先輩と話すのって緊張したー!』
 会話を終えたあと、まだ角に手塚がいるのに気づかずそう声を上げた女生徒がいたことを思い出す。
(父さん相手に、緊張しているというのか――?)
 まさか、と手塚はその考えを否定する。強面といわれる祖父を前にしてさえ、優雅に挨拶をしてみせた人間が、この父相手に緊張するとは思えない。
「いやいや、ほんと助かったよ……ふわぁー」
 またもや大きなアクビをする国晴の姿には、緊張感の欠片もないのだから。食事に戻ろうとした手塚の視界のなかで、不意にの手がスッと動き、手塚は反射的にその動きを目で追っていた。
「あの…ネクタイが、曲がってますよ」
 伸ばされたの手が、国晴のネクタイに触れていた。その指先が、流れるように動いている。
「はい、これで大丈夫――素敵です」
「ん――ああ、ありがとう」
 国晴は当然のように笑って頷いていたが、これは――これは、なにかが違うんではないだろうか。父親が『素敵』の部類に入るのかどうかは置いておいて、この情景は――日常、こんな朝から、行われていい普通のことだとは――到底思えない。混乱しきった手塚を引き戻したのは、いつもと同じく明るい彩菜の声だった。
さーん、やっぱりお茶よりコーヒーのほうがいいかしら?」
「いえ、おかまいなく」
「いや、俺はコーヒーがいいなぁ。あと、味噌汁」
 に続けて、国晴が答える。
「じゃあ、コーヒーはぼくが淹れてきますね」
「悪いな、くん」
「いいえ」
 そう言いながら微笑んだはとても嬉しそうで――そう、嬉しいんだと感じさせる笑顔で――手塚の視線にも気づかず、キッチンへと行ってしまった。
 なにかがおかしい。おかしすぎる。の存在が、手塚家には不似合いだというだけでなく。
 初めて朝食後に口にしたコーヒーは、美味しかったが、手塚の違和感を一層高めた。


「行って来ます」
 さっさと家から出て、いつもの『日常』に戻そうとした手塚に、背後から声が掛かる。
「待って、国光くん。学校まで送っていくよ」
 違和感の根源は切り捨てるべきだ。
「いえ、結構です」
「遠慮しないで。ぼくも帰るところだし」
「いえ、歩いていくのも鍛錬ですから」
「そう……」
 が残念そうに目を伏せて呟く。その姿に少しだけ心が痛まないでもなかったが、父、国晴を前にしていたときとはやはり違う――作られたポーズであるだけの気もした。
「なに言ってんだ、国光。くんが折角こう言ってくれてるんだから、送ってもらえ」
「そうよ、国光。気になるなら、着いてからその分たくさん練習すればいいじゃないの。でも国光は練習しすぎなのよね。そういえば……最近、肘のほうはどうなの?」
「ああ、副部長の…大石くんと言ったか、彼のおじさんの病院に通ってるんだったな。一度ちゃんと挨拶にいかないとなぁ」
「いえ、あの――」
 これ以上ここにいたら話が長くなりそうだと判断した手塚は、軽くため息をついて、に「お願いします」と言った。
「うん。それじゃあ――」
 一瞬にして明るい表情に戻り、微笑んだだったが、もうこれ以上考えたくはなく、手塚は背を向けた。
(彼がどういう人間だか、なにを考えているのかなど、どうでもいい。ただ彼の車に乗る――その事実だけで充分だ)
 そう思った手塚の決意は、外に出た瞬間に打ち砕かれた。敷地内に停められていた手塚家のものではない車には、燦然と輝くベンツマークがあったのだ。手塚が車に興味があれば、それがSクラスメルセデスベンツで、新車で買えば一千万円台、中古でもその半値はする車だと分かっただろうが、そうとは知らないまでも、二十歳そこそこの人間が乗り回すのに相応しい値段ではないだろうということは分かった。
「あ、バッグは後ろに。シートベルトしてね」
『立てた煙草も倒れない』と評される静かなスタートを切り、車は走り出した。
 必要以上に飛ばすこともなく安全運転をするに、とうとう手塚は黙っていられなくなり、切り出した。
「失礼ですけど、お仕事はなにを?」
「なんだと思う?」
 明らかに楽しんでいる雰囲気で、が聞き返してきた。
「父と同じ会社の方とは思えないのですが」
「そうだね、違うよ。ヒント――国晴さんは昨日お酒を飲んでいたのでした」
 手塚の父は人付き合いがよく、しょっちゅう会社の人間と飲みに行く――というタイプではない。
「――接待だった、ということですか?」
「当たり」
 はそのときの様子を思い出してでもいるかのように、楽しそうに答えた。
 しかしいくら高価そうな車に乗っていても、接待した相手にあんなに親しげに振舞うことはないだろう――国晴の様子を思い出して、手塚は考える。そして、彼の慣れた雰囲気のことも充分に考慮して、導き出した結論はひとつだった。
「では――その接待に使っていたお店の方ですか?」
 手塚の答えに、がクスリと笑った。
「うん、正解。その店の人間――ホストなんだ」
 の答えを、手塚は理解することができなかった。
「……は?」
 手塚が驚いたことに気づいてか――説明するようには続けた。
「女性社長の接待なんかじゃね、よく使ってもらうんだよ。ぼくはまだ下っ端だけど、国晴さんはよくぼくを指名してくれて――ほんと、助かってるんだ」
 まだよく理解できないままだったが、気づいたことだけを、手塚は返した。
「父は――初めてじゃなく――よく、行くんですか…?」
「毎日ってわけじゃないけど、もう……5、6度目かな。いくらサービス業でも、初対面のお客様を車に乗せて送ったりしないよ――酔いつぶれてちゃ、住所も分からないしね」
 まだ混乱した頭のままで、手塚は必死でこの事態を整理する糸口を考えていた。そう、接待――仕事の延長上のことなのだ。父が好きでホストクラブに通っていたわけではない。仕事なのだ。ビジネスマンともなれば、そういう付き合いもあるのかもしれない。
 ようやく手塚が納得しかけたころ、がポツリと呟いた。
「ほんとうに国晴さんは優しい人だよね……。ぼくは、あんなに素敵な人に、会ったことなかった――」
 静かすぎるエンジン音のおかげで、その言葉はすべて手塚の耳に入ってきた。
「あの――」
 ますます理解できずに聞き返そうとした手塚に、が慌てて打ち消すように微笑んで答えた。
「誤解しないでね。あんなに素敵な奥さんがいるんだし、きみみたいなきちんとした息子さんもいるし――家庭を壊す気はないから」
「はぁ?」
 今度こそ――今度こそ本当に理解ができない。思わず声を上げるなどということをしたのは、何年ぶりの行為なのかも、手塚には分からなかった。
「あの、一体……。それはなにかの冗談ですか?」
 自分の声に、少なからず怒気が含まれていることに、手塚は気づいていた。全く理解ができない。こんなに理解ができないことだらけなのは、初めてだ。
「あ、着いたよ。青春学園――ここでいいんだよね?」
 そんな手塚の様子に気づいているはずなのに、はなにも触れずに、静かに正門前に車を停車させた。車を降り後部座席を開け、手塚のテニスバッグを取り出しているのに気づき、手塚も助手席から降りる。
「はい」
 にこやかに微笑んで、はバッグを差し出していた。それこそ――完璧な営業スマイルで。
 手塚はもうなにも言えず、ただ受け取るしかできなかった。
「思うくらいはさ、好きにさせてよ――」
 静かに言ったの言葉にも、答える気はない。
「ごめんね。じゃあね、国光くん」
 無言のまま、手塚はに背を向けた。
 歩き出した手塚の背後で、静かに車が走り去った音が聞こえた。
「おはよう、手塚。あの人、誰――?」
 気づくと、隣を不二が歩いていた。
「誰でもない」
 手塚が口にしたのはそれだけだった。
 そう、誰でもない。なんの関係もない。
 なぜ自分がこんなに苛立っているのか――理解できないことが多すぎた。