叶う、思い 2
その日から一週間が過ぎ、スケジュール通りの日常をこなしていた手塚は、のことをほとんど忘れかけていた。まだ完全に忘れたわけではなく、時折思い出してしまっては「関係ない」と思考を停止していたのだが、その回数も日に日に減っていたから、あと数日もすれば完全に忘れられるはずだった。その日、帰宅した手塚家のリビングで、のんびり本を読んでいるの姿を発見するまでは。
「お帰り。こんばんは、国光くん」 ニッコリと親しげな、その微笑み方は変わっていなかったけれど、なぜかその雰囲気は違った。見れば髪が――みっともないほどボサボサというほどではないが、きちんと整えられていないのは明白な――まるで学生のようで、をさらに若く見せていたし、それに細身の身体には不似合いなほど、大きなサイズのシャツを着ている。膝に置かれた本のページを捲ろうとしているのは左手で、大きすぎるシャツの袖口から覗く右腕には――ギプスが巻かれていた。 「なんでここに――」 感じたままの疑問を口にしていたと気づいたのは、がいかにも申し訳なさそうに微笑んだからだ。 「ごめんね。ぼくもこんな予定じゃなかったんだけど……」 「あら、国光。お帰りなさい」 スリッパの音をパタパタとさせて、また楽しそうだと伺える彩菜がキッチンから出てくる。 「さん、大変だったんですって。マンションの上の階でぼやが出て、さんのお部屋も水浸しにされてしまったそうなの」 「でも、保険も入ってましたし……、そんなに被害はないんですよ。新しいマンションも、もう二、三当たってもらってますし。ただ……」 はチラリと自分の右腕に視線をやってから、微笑む。 「ちょっとドジすぎましたね」 「そんなことないわ。それは国光のせいですもの」 「――!」 突然出された自分の名前に、それこそ手塚はなにも言えないほど驚いた。 「いいえ、国光くんのせいなんかじゃありませんよ。ぼくが慌てていたせいですから」 「でも国光を送っていかなかったら、もっと早くお部屋に帰れていたでしょうし、そうしたらさんがそんなに慌てることもなかったでしょう」 会話から察するに、どうやらが怪我をしたのは一週間前、手塚を送っていった朝のことで、そのあとマンションに着いてみるとぼや騒ぎが起きていて、慌てたが転んで怪我をしたということなのだろう。だが……どうしてそれが、自分のせいになるというのか。 確かに送ってはもらったが、言い出したのはのほうだし、そもそも、が手塚家に泊まる原因を作ったのは父、国晴だ。それに――ぼやを出したその住人が、結局のところ悪いのではないか。 憤然とする手塚を余所に、彩菜との会話は続いていた。 「それにしても、さんたらそんなに慌てるほど、なにを取りに戻られたの?」 「これを――」 は手にしていた本をパタンと閉じた。遠くて読むことはできなかったが、そのタイトルは英語で書かれているようだった。 「――祖母の、形見なんです。他のものはいくらでも買いなおせるけど、これだけは、無理だから……」 「まぁ……じゃあその本が無事で良かったわね」 「ええ」 そう言って微笑んだの表情はひどく優しげだった。その状況で怪我をしてまで――したくてしたのではないだろうが――迷いもなく選び出したものが、金だとか宝石だとかではなく、たった一冊の本だとは。 手塚が抱いていたの印象と、少し違う気がする。祖母の形見を大事にするという点については、好感を抱かずにはいられなかった。 「ただいまー」 間延びした声が手塚の背後で聞こえた。 「なんだ国光、立ち止まって。邪魔だぞ」 ひどい言われようだとは思ったが、手塚は一歩下がり「お帰りなさい」とだけ口にした。 「お帰りなさい、あなた」 「国晴さん、お帰りなさい。お言葉に甘えて、お邪魔してしまっていて――すみません」 彩菜の隣に立ち上がって、が頭を下げていた。座ったまま、本も広げたままだった自分のときとはずいぶん違う――目上の人間と下の人間に対しての態度としては普通なのだろうが、そう易々と納得できないのは、の気持ちを聞いているせいだろう。 「いや、いいんだよ、くん。遠慮しないで。本当なら一週間と言わず、ずっとウチにいてくれてもいいくらいなんだからなー」 ハハハと笑う父の姿を、手塚は信じられないものを見るような目で見ていた。 いま、父はなんと言ったのだ? が怪我をした過程は分かった。けれどそれは、が手塚家のリビングでくつろいでいる理由にはならない。 「あなた、お風呂沸いてますよ。お義父さんはもうお済みです」 「そうか――でも、くん、まだなんだろう? 先に入りなさい」 「いえ……ぼくは、この腕ですから、かなり時間が掛かってしまいますので、後でで構いません」 なぜが手塚家で生活するなどという話になったのか――? ついていけずにいる手塚を置いたまま、会話は続いていた。がいると、こんな状態になってばかりな気がする。 「あら、そうよね。その手じゃ、身体を洗うのも大変よね――国光」 「はい、なんでしょう」 混乱しきった頭のなかでも彩菜に名前を呼ばれてすぐ返事ができたのは、日ごろの鍛錬の賜物なのかもしれない。けれどその自制も、次の言葉を聞くまでのことだった。 「あなた、さんと一緒にお風呂に入ってあげてね」 結局、風呂に先に入ったのは国晴だった。 その間に四人で食卓を囲んだ。は、前回と同じく国晴の席に座っていた。やはり左手で箸を使うのは無理だということで、彩菜が出してきたフォークとスプーンを使っていたが、意外にもガチャガチャ音をたてることもなく、器用に食事をしていた。 そういえば――手塚は思い出す。怪我をしたのは一週間前といっていたのだから、その間はひとりでなんでもやらなければいけなかったのかもしれない。手塚自身も最近まで肘を痛めていた経験上、怪我の辛さは多少なりとも理解できた。 (だが――それとこれとは別の話だ) そう手塚が思ったのは、食後に母親にたたまれたパジャマを渡されてと一緒に洗面所に押し込まれたときだ。 立ち尽くす手塚の横で、は片手でシャツのボタンを外していた。 「ごめんね、ぼくもこんなことになるとは思ってなくて。ちょっと職場に挨拶にいったら、たまたま国晴さんが来ていて。ぼやのせいでいまウィークリーマンション住まいなんですよって話をしたら、それならウチに来ればいいって言ってくれて――迷惑掛けるのは分かってたんだけど、断りきれなくて……」 項垂れてしまったを見て、一週間前のあの言葉を手塚は思い出していた。 『思うくらいはさ、好きにさせてよ――』 普段の楽しそうな口調とは違い、静かに言われたことは逆に重みを増して感じられた。 「あのさ、一緒に入らなくていいからさ――左腕だけ洗ってくれると、助かるんだけど。ダメかな?」 器用にシャツの袖から腕を引き抜きながら、が言った。確かに、右腕が使えないいま、左腕を洗うことだけは、どんなに器用な人間でも不可能だろう。 思うだけ――がそういう気持ちでいるのなら、それでいいのかもしれないと手塚は思った。もちろん協力するつもりなどまるでないが、不自由な間、ここにいるくらいなら、それで。 「分かりました」 手塚はシャツの袖とズボンの裾をゆっくりと捲り上げた。 が浴室に入ったのを確認して、眼鏡を外す。 「あれ、国光くん、眼鏡――」 入っていくとが振り向いて言った。 「あ、そうか。曇っちゃうもんね。でも……そうだね、外してるほうが、若く見えるかも」 そんなの軽口にも、答えられなかった。 椅子に腰掛けて身体を濡らしていたの、腕も首筋も肩のラインも――細くて白くて、透けるように白いというのはこういうことをいうのかと、手塚は思った。そして右腕だけでなく、左腕にも肩にも、その白い肌のせいで余計に目立つ青いあざがいくつか浮かび上がっていた。 「あ――これ。ほんとドジだよね。階段から落ちるなんて。エレベーターを待つより早いと思ったんだけど、結局これだもんなぁ」 おどけるように言ったの言葉で、自分が彼の背中をじっと見つめていたのだと気づき、手塚は視線を逸らしてボディスポンジを手にした。ボディーソープをつけ、彼の左腕に当てる。人の身体を洗うなど初めての行為だったから、どのくらい力を入れたらよいのかも分からなかったが、その細い腕を洗う面積など少なく、それはものの五秒で終わってしまった。 「ありがとう、あとはいいよ。自分でできるから」 泡のついた左手を差し出され、手塚はスポンジを渡すことしかできなかった。 「あがったら、声かけるから――部屋でいいんだよね?」 「ああ」 答えて浴室の扉を閉めてから、敬語を使うのを忘れたと手塚は気づいたが、どうすることもできなかった。 自室に戻って――予習をしておこうと机の上で教科書を広げた。 コンコンとノックの音がしたのはしばらく経ってからのはずだったが、教科書は一ページも捲られてはいなかった。 「――はい」 手塚が答えると、扉が押し開けられる。 「遅くなってごめんね、あがったよ」 濡れた髪のが顔を出した。 「あとさ……」 がそんな気まずそうな声を出したのは初めてだったので、手塚は内心驚いていたが、顔には出さずに答えた。 「なんですか?」 「うん、あの……彩菜さんがパジャマ代わりにって、出してくれたんだけど……」 そう言いながら扉がすべて押し開けられる。その姿を見て、手塚はその理由を覚った。確かに、ギプスをはめた腕にもサイズを気にせずに着れるものだろうが――は、浴衣の前を左手で押さえ、同時に帯も一緒に持ちながら笑っていた。 「結んでくれる?」 「分かりました」 他人の帯を結わえるというのも初めてだったが、やってみるとそれほど難しくもなく、すんなりと締めることができた。 白地に紺の染めが入ったこの浴衣には見覚えがある――祖父のものだろう。色が白いのはともかく、明るい髪でまだ若いには、祖父の浴衣は似合わないとだろうと思ったのに、実際目の当たりにしてみると、そうおかしいところもなく、不思議と似合っていた。 「あ、ねぇ。国光くん」 またもを見つめていた事実を隠すように、手塚は眼鏡を押し上げた。 「なんですか?」 「本、借りていい? することなくて、暇で」 の視線は手塚の本棚に向けられていた。 「あ! エド・マクベインの87分署シリーズ! 国光くん、ミステリー好きなんだ」 迷うことなく洋書の並べられている棚に近づき、はすでに本を抜き出していた。 「国光くん、いっぱい読んでるんだねぇ」 楽しそうに本棚を眺めているは、まだ濡れた髪型のせいもあってか、ひどく子供っぽく見えた。 「どうぞ、お好きなのを持っていってください」 それだけ言うと、を部屋に残し、手塚は浴室へ向かった。 三十分後――手塚が部屋に戻ってみると、扉の隙間から灯りが漏れていた。静かに扉を開けると、予測通り、がまだ手塚の部屋のなかにいた。それもベッドの上で壁にもたれて、夢中で本を読んでいた。同じくベッドの上には二、三冊の本が積まれている。 「持っていってくださって構いませんが」 手塚が声を掛けると、ようやく手塚がいたのに気づいたように、が顔を上げた。 「ああ――ごめんね。待ってたんだ。だって……髪、乾かせなくて」 そういえばドライヤーは洗面所にある。場所を知らなかったのかもしれないし、知っていても、使う時間を遠慮してここまで来たのかもしれない。 ドライヤーなら洗面所に――と答えようとしたとき、先にが口を開いた。 「ねぇ、国光くん、やってくれないかな? 片手だと、全部同じ方向に髪がいっちゃって」 「――いいですよ」 なぜすぐにそう答えたのか、手塚自身にも分からない。分からないまま、手塚は足を戻し、洗面所からドライヤーと櫛を取ってきた。 ベッドに座って本を読んだままのの向かいに立ち、ドライヤーのスイッチを入れる。すぐに噴出される熱風を熱くなりすぎないように気をつけながら、の髪に当てていく。右手で掻き回すように触れているその髪は、とても柔らかかった。 最後に櫛でとかして全体を整える。 「終わりましたよ」 他人の身体を洗うのも、他人の浴衣の帯を締めるのも、他人の髪を乾かすのも――手塚にとってはすべて初めての経験だった。やりたくてやったことではないが。 「あー、とっても気持ちよかった。ありがとう。できたら……また、やって欲しいな」 そう言って笑ったの顔はとても嬉しそうで――いままで見た慣れや愛想を感じさせる笑顔とは違った。 「――いいですよ」 手塚は答えていた。 「ほんと! ありがとう。じゃあ――これ、借りてくね」 読みかけの本を手にベッドを降りたはニコッと笑って手塚の部屋を出て行った。その笑顔は――すでにいつもの慣れた雰囲気で。 (もしかして――嵌められたのか?) ベッドに投げ出された本を眺めながら、これから始まる一週間の同居生活を思って、手塚は眉を顰めた。 |