叶う、思い 3
が来てなにが変わったといったら――それは食卓の風景だろう。ダイニングテーブルには、椅子がひとつ追加された。同じようなサイズではあるがデザインが微妙に違う、セットにそぐわないその椅子は、そのままの存在を表しているようだった。
「国光くん、お醤油使う?」 「ありがとうございます」 手塚の左に座るから、醤油差しを受け取る。本来、左利きの手塚と右利きのがその位置に座ると腕がぶつかってしまうのだが、はいま右手が使えずに左手で食事をとっているから、その点では問題はなかった。問題なのは―――― 「お、くん。俺にも醤油を取ってくれるか?」 「はい、国晴さん」 そう、問題なのは、国晴の隣でもあるということだった。もっとも朝の食卓でなにか起きるわけでもなく、いたって普通の食事風景なのかもしれないが、嬉しそうなの姿を見せ付けられているようで、気分がいいとはいえない。 「そうそう、昨日さんとお買い物に行ったのだけど――」 彩菜が楽しそうに話し始めるのも、ここ五日間繰り返されたことだ。来た次の日に、当座必要なものを買いに一緒に出かけたらしいのだが、その後も、夕食の買い物だの、彩菜の個人的な買い物だのに付き合っているらしい。手塚も一度だけ、彩菜が服を買うのに付き合わされたことがあるのだが、「どちらがいいと思う?」という質問に「どちらでもいいんじゃないですか」と答えて以来、誘われることはなくなった。 「そのとき東郷さんの奥さんにお会いしてね、息子さんがお買い物に付き合ってくれるなんて羨ましいわ、なんて言われたのよ。残念ながら息子じゃないわとお話したけれど、説明が難しいから、さんのことは、従兄弟なのと言っておいたわ。でも、さんとわたしって、親子に見えるのかしら? だったら嬉しいわ」 近所のスーパーへ行けば、近所の主婦にも会うだろう。そしての存在に気づけは、聞くだろう――主婦特有の、遠まわしなくせに直接的な表現で。 「そうだったらぼくも嬉しいですけど、彩菜さんはこんな大きな息子がいる歳には見えませんから、無理ですよ」 手塚には思いつくこともできないようなセリフで、が答える。彩菜と国晴が笑い、祖父は煩いとたしなめることもなく、いつもの通り静かに食事を続けている。なぜか手塚だけがひとり、常に居心地の悪さを感じていた。 「ごちそうさまでした」 立ち上がって部屋に戻り、バッグを手に玄関へ向かう。靴を履いている手塚に、「はい、これ」と背後からの声が掛かるのも、もう五日目なのに、慣れない。 「どうも」 差し出されているお弁当を受け取り、手塚は言った。もちろん、片手しか使えないが作れるはずはなく、は持ってきただけなのだろうが、そう言わなければいけないだろう。 「いってらっしゃい、国光くん。気をつけてね」 が言う。ここ五日間、いつも同じように。 そう言われたら、これも答えなくてはいけない。 「いってきます」 手塚も返した。ここ五日間、いつもと同じように。 こうしてますます、は手塚から平常心を奪うのだった。 帰宅すると、がいちばんに顔を出す。 「お帰り、国光くん。はいはい、お弁当箱出して」 その幼稚園児を相手にしているような態度に、少なからず不満を覚えるのだが、なにも言わずに手塚はお弁当箱を取り出して、に渡した。そしてバックを部屋に置き、学生服から着替えて階下へ戻ると、夕食が始まる。夕食は――遅くなる国晴がいないこともあった。国晴がいなくても、は手塚の隣に座ったから、空いている席はやけに目に付いた。 夕食後は、風呂に入るを手伝う。初日は右腕だけだったのに、「背中も届かないところがあって」「頭も洗いにくいんだよね」「あ、もうちょっと強く」だの、結局言われるままに次から次へとこなしていったため、これにはすっかり慣らされてしまった。この先、祖父に介護が必要になったとき役に立つかもしれないと思ってやっていたことを知られたら、ではなく、他ならぬ祖父に怒られるだろうとは思ったが。 その後、湯船に浸かるを残し、部屋へ戻り勉強をしていると、上がったが部屋へ尋ねてくる。その手に、ドライヤーを持って。の髪を乾かしたあと、は本を選び、手塚は浴室へ向かう。手塚が入浴を終えて帰ってきても、まだは手塚の部屋にいた。ベッドの上で、選んだ本を読んでいるのだ。来た次の日に彩菜と買いに行ったらしい、ギプスした腕も通る大き目のパジャマを着て、ベッドの上で壁にもたれて座るその姿は、どうしたって子供っぽく見えた。 「持っていっていいですよ」とも、はっきり「勉強したいので」とも言ったのだが、は静かにしているからここにいさせて欲しい、と言った。手塚が不機嫌なままでいるのを察したのだろう、は困った顔をしてこう続けた。 「だってミステリー読んでて、不意に顔を上げたらひとりって、怖くない?」 まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。 「フィクションですから」 そう答えたときの、の表情が忘れられない。それはすぐに消えてしまい、仕方ないなぁといったふうな余裕のある笑みに変わったのだが。 「えー、だって、自分が入り込んだ気分で読まないと楽しめないでしょ? 国光くん、可愛くないぞ!」 可愛いなどと思われなくて構わなかったが「好きにしてください」と、手塚は頷いた。は満足気に微笑んだあと、言葉通り静かに本を読んでいたのだが、その日の勉強ははかどらなかった。一瞬だけ見せたの表情が、チラつくように何度も思い出されてしまったからだ。目元を赤くして戸惑ったような表情――あれは、もしかするとはテレていたのではないかと、何度も思い返すうちに手塚はそう結論づけた。物語に入り込むことを子供っぽいと手塚に指摘されたと思ったのだろう。 (それを隠そうとするほうが、子供っぽい気がするがな――) 手塚は思い出しておかしく思っていることを、自分でも珍しいと思いながら、階段を上がった。少し開けられたままの部屋の扉から、また灯りが漏れている。五日目の今日も、はベッドの上で本を読んでいるのだろう。静かに近づいていって扉を開けたら、飛び上がって驚くのではないかと、悪戯心が芽生える。もちろん本気で実行する気はなかったが、そんなことを思い楽しんでいる自分自身に気づき、自分にもそんな子供っぽい一面があったのかと手塚は驚いていた。 扉を開けると、いままでと同じく室内は静かだった。けれど違った。はベッドの上にはいたが、本を読んではいなかった。手塚はベッドに近づいていって、その姿を見下ろす。は――左手で本に手をかけたまま、横になって――眠っていた。 手塚の眼下で、規則的に静かな呼吸の音だけが繰り返されている。熟睡しているようだった。 「――さん、風邪をひきますよ」 少し迷ったが、手塚は声を掛けた。 「……ん、……ん」 吐息を漏らすような声が聞こえ、が少し身じろいだ。けれど、起きる気配はなかった。 (まったく――) 仕方なく手塚は、タンスからフリースのブランケットを取り出し、に掛けてやる。これで風邪をひくということもないだろう。手塚はいつものように復習を始めようと机についた。 しかし――進まない。 寝ているのだから、起きて本を読んでいるときより静かなはずだったし、実際静かだったと思う。けれど手塚は背後が気になって仕方なかった。なにか自分が音を立ててしまうたび、を起さなかったかと振り返ってしまう。そのほうが――が起きて客間に戻ってくれるのが、いちばんいいことのはずなのに。 ふうっとため息をついて、手塚は立ち上がった――いつもより、心持ち静か目に。ベッドに近づくと、もう一度名前を呼んだ。 「――さん」 手塚の声に応えるように、のその細い身体が身じろぐ。 「…ん――」 の手にかろうじて挟まっていた本が、その細い手から外れて壁際へ滑った。 ベッドに手をついて――手塚は本を取ろうと、もう片方の手を伸ばした。 手塚の身体の下で、の身体がもう一度身じろいだ。ベッドについている手塚の手に、擦り寄るように。 「――――好き」 微かに動いた唇と、ささやかに響いたその言葉と。 別々に認識したそのふたつが手塚の頭のなかで結びついたとき――手塚は反射的に身体を起した。掴んだことを忘れた本が、床に落ちてバサリと音をたてた。 「ん――……」 の身体が揺れ、その瞼も揺れた。 「あ――…れ? ……国、光く――?」 が目を瞬かせる。 「なんで、国光くんが、ここに……? あ――」 周囲を見回して、ここがどこなのか気づいたのだろう。 「ごめん、うたた寝しちゃってたんだね。あ――掛けてくれて、ありがとう」 手塚が掛けたブランケットに気づき、が微笑む。 けれど手塚はなにも言わずに、に背を向けた。椅子に座り、教科書を広げる。 「邪魔しちゃったね――ごめん」 背後でベッドのきしむ音がして、が立ち上がったのだと分かる。けれど、手塚は振り向かなかった。 「じゃあね――国光くん。……おやすみ」 パタンと扉のしまる音がしても、手塚は身動きひとつしなかった。 『――――好き』 無意識に囁かれた言葉と。 『なんで、国光くんが、ここに――?』 意識して感じた疑問。 が夢のなかで誰といたのかは、明白だろう。 知っていたことだった。知っていたことなのに、なぜ―――― その夜、広げた教科書が捲られることは、一度もなかった。 朝――起きた手塚の目に入ったのは床に投げ出されたままの本だった。昨日が読んでいたものを取って落として、そのままにしていたのだ。元に戻さなくてはと拾い上げ、本棚へ向かう。そのときなぜか違和感を感じて、手塚は本棚をじっと見つめた。ふっと湧き上がるように、その文字は目に入ってきた。 『A MIDSUMMER NIGHTS DREAM』 (真夏の夜の夢――?) 右下にしまわれたその本を引き抜いてみる。かなり古めかしい革張りの装丁のその本に書かれていた金文字は『SHAKESPEARE』だった。 (シェイクスピアの『真夏の夜の夢』か――) ちゃんと読んだことはないが、確か、妖精が間違った相手に魔法をかけ、恋人同士が別の相手と恋に落ちてしまい混乱するといった戯曲だったはずだ。 なんの本だか分かったものの、手塚には見覚えがない。パラパラと捲ると、中は英語だった。ふと――あの再会した日、居間のソファでくつろいでいたの姿が思い浮かんだ。あの手に握られていた祖母の形見という本は、これではなかっただろうか――? パラリと捲られた最後のページから、紙切れが落ちた。屈んで拾うと、それは一枚の写真だった。そこに写っていたのは―――― (……父、さん?) 国晴が、金色の髪の五歳くらいの少女を膝に抱いて座っている。 (いや、違う――? 似ているけれど、これは……) よく見ると、父とは微妙に違う気がする。けれど、父に兄弟はいないし、こんなに似ている親戚がいたというのも聞いたことはない。 手塚はそのまますぐに、部屋を出た。 「これは――なんですか?」 珍しくもうテーブルにいた父親に、その写真をつきつけた。 「これは――」 一瞬にして、父の顔色が変わる。 「そうか、これが――…。自分で見ても似ているって思うのは、妙な気分だな」 ひとりだけ納得している父に、だからなんなのかと問い詰めようとしたとき、彩菜がひょいと背後からその写真を覗き込んで言った。 「まぁ、さんの写真ね。可愛いわ。五歳くらいかしら」 (え――――?) 「ああ――そういえばくんが五歳のときに亡くなったって聞いてるから、これが最後の写真なのかな」 「まぁ、そんな小さいうちにお父さんを亡くされたの?」 「ああ、母親も心労でイギリスへ帰国して――それからお祖母さんとずっとふたりで暮らしてたらしい」 「その方が、あなたに声を掛けてきたっていう…?」 「ああ。そのお祖母さんも……先月亡くなったそうでな。やっぱり――放っておけないな。帰すんじゃなかったか……」 「ちょっと待ってください!」 ふたりの間で繰り広げられる信じられない会話に、とうとう手塚は口を挟んだ。 「これが……さんの父親? なぜ、父さんにそっくりなんですか?」 混乱する頭を必死で整理して、手塚は言った。けれど父親から帰ってきたセリフは、もっと混乱させられるものだった。 「なんだ、国光? 覚えてないのか?」 「覚えてって――」 「山登りの訓練だって、初めてお前とふたりで旅行したのは――あれは蓼科だったか。あのとき、駅で声を掛けられて、そのお祖母さんの別荘に一泊させてもらったことがあっただろう?」 「あなた、そのころ国光はまだ五歳だったわ。あまり覚えていないのも無理ないわよ」 「ちょっと、待ってください――」 手塚は必死で、昔の記憶を思い起こそうとした。けれどそれはひどく曖昧で――でも、ぼんやりと思い出してきたものもある。初めて父とふたりだけで旅行することになった、あの不安とそれを増す期待と。並んだベッドに父と隣同士で眠ったのも初めてで――そう、その部屋はいま考えるととても家庭的な雰囲気だったような気がする。母以外の手で作られた食事を口にするのもあまり経験のないことで。そうだ、その食事を運んできたのは―――― 「おばあさんと、少女だ――」 「なんだ、国光! お前、あのときくんのことを女の子だと思ってたのか?」 「そうね――それも、無理もないわよ」 彩菜が写真を見ながら言った。 「そのころ――さんは十二、三歳? いまでもあんなに可愛いんですもの。まだ子供の国光には性別なんて大した問題じゃなかったでしょうし。ねぇ?」 手塚は母親の質問に答えなかった。 「さんは……?」 恐る恐る、手塚は聞いた。さっき父が、それについてもなにか言っていた気がするのだが。 「帰ったよ。昨夜遅く、いい部屋が空いたからすぐ見に来ないかって、知り合いから電話があったらしい」 「うちにずっといてくれてもよかったのに……残念だわ」 に、問いたださなければならないことがある――いますぐに。 「どこに行ったか、聞いていますか?」 「さぁ、場所まではなぁ」 「じゃあ、お店の場所を教えてください」 「え? 店……?」 「だから――彼の働いている、ホストクラブですよ」 「はぁ? ホストクラブゥ?」 目を丸くした父を見て、手塚は、本当に一度も、父親にについて尋ねたことがなかったという事実に気づいたのだった。 |