もう一度隣に (前編)


side You

「最近楽しそうですね、。なにか良いことでもありましたか?」
 昼休みの学堂で、いつものように一緒に食事をしていた大和祐大にそう言われて、は少しだけ戸惑った。確かに、自分の中ではとても良いことがあったのは事実で、それを表に出したつもりはないけれど、付き合いも長く、ただでさえ聡い大和には分かってしまうのだろう。
 手塚とテニスをした――――
 ほんの短い時間の打ち合いで、初心者の自分の相手を手塚にさせただけの、とてもテニスと呼べるものではないかもしれない。でも同じコートに立ち、同じボールを追い、同じ時間を過ごしたのは、とても大事な記憶。
『全国大会だけを、見に来てください。全国大会の――決勝戦だけを』
 その言葉の意味が分からない人間はいないだろう。全国大会で優勝する――手塚はそう宣言した。
 彼の言葉が、余裕や自信過剰から来たものだとは思わない。の知る彼は、実力があるのにそれを過信したりせず、慎重で、常に最善をつくそうとする、とても努力家な人だ。その彼が、今年は全国制覇すると言い切ったのだ――それだけの強い意思を持って、彼はこの大会に臨んでいる。それを直接知ることができたなんて、幸せすぎるくらいだ。も、なにがあっても必ず全国大会の決勝戦には会場に行くことを決めていた。
「とても――良いことがあったようですね、
 大和の言葉に、はひとり自分の考えに没頭していたことに気づく。それでも、大和の口調は優しいもので、がどう答えてもその態度は変えたりはしないだろうと思う。
「うん、とても良いことがあったんだよ、祐大」
 それがなにかは言えないけれど、口にしなくても、大和なら分かってくれると思うのだ。
「――そうですか、それは良かったですね」
 大和はそう答えただけで、それ以上根掘り葉掘り尋ねてきたりはしなかった。安堵しつつ、言えないことを申し訳なくも思う。いつか大和に話せる時が来るだろうかと考えて、それはが手塚のことを思い浮かべてもこんなにドキドキすることがなくなる日がくることだと気づく。ただの後輩だと、が思い切れるようになる日だと。
「そうそう。昨日、中等部の関東大会の一回戦ですが、僕の都合がつかずに見にいけなくて残念でしたね」
「え――あ、ううん!」
 高等部でも大会中である。レギュラーである大和にそうそう時間が空けられないのは分かっている。そんな大和に、一緒に見に行こうと誘っておいて、やはり行けないとは言い出しづらかったので、正直ほっとしていたのだ。悪いとは思うけれど、手塚との約束のことを話すわけにはいかないのだから。
「青学は――氷帝学園に勝ったそうですよ」
「氷帝って、とても強いところだよね。すごいな! でも……今年は全国に行くんだものね」
(ぼくが見に行かなくても、青学は――手塚くんは決して負けないんだから)
 微笑んだに、大和が告げたのは信じられない言葉だった。
「ええ……でも手塚くんが、その試合で肩を痛めて負けたそうですよ」
 言葉が――出てこない。
「え……あ……」
「僕も驚きましたよ。手塚くんは、僕の知る限り負けなしでしたからね」
 大和の声は聞こえる。
「相手は、氷帝の部長だったそうですよ。確か昨年のJr.選抜に選ばれていた選手だったはずですから、かなり強かったんでしょう。試合時間はいままでになく長いものだったそうで――」
 大和の声は聞こえている――のに、言葉が出てこない。いちばん言いたい言葉が。
「あ……」
「どうしました、?」
「あの……」
 深く呼吸をして、はようやく言葉をひねり出した。
「それで……手塚くんの、具合は――?」
「ああ、痛めた肩の具合ですか? さぁ……僕もそこまでは聞いていません」
 大和の答えに、文句が言えるはずもない。大和から知らされなければ、手塚のケガのことを知らないままだったのだから。
「肩を痛めるということは選手生命にも関わることですね。肩の故障で引退するテニスプレイヤーは決して少なくありません」
「そんな……」
 テニスが――できなくなる……?
「手塚くんが……そんな……」
「ええ、心配ですね。ですから――」
 大和の言葉が、聞き取れなかった。
「え…?」
 聞き返したに、大和はいつものようにニッコリと笑って告げた。
「ですから、。様子を見に行ってもらえませんか?」


 が中等部に足を踏み入れるのは二年ぶりのことだ。中等部と高等部の敷地は完全に分かれていて、用もなく立ち入ることはできない。放課後、練習の終わりそうな時間を見計らって現在中等部内を歩いているが抱えているのが果たして正当な『用』と言えるのか。不安の残るところではあるが、それでもやましい気持ちがあるわけではないのだからと、一路テニスコートを目指した。
 二年前に通いなれた道を通り、たどり着いたコート内を見回して、気づく。
(あれ……? レギュラージャージを着ている人が、ひとりもいない……?)
 コート内で打ち合っているのは、中等部指定のジャージを着ている人間ばかりだ。周囲をランニングしている人間もいない。レギュラー陣だけ特別練習をしているのか。それとも、昨日試合だったからお休みなのだろうか――?
 ちょうど通りかかった、指定のジャージの色からして一年生のふたり組みに、は声を掛けた。
「あの……三年生の誰かとお話したいんですが、今日はどちらにいらっしゃるんでしょうか?」
 本当は手塚の名前を出したかったけれど、手塚ひとりに会ったとき、きちんと喋れるかどうか自信がない。だから誰か他のレギュラー陣から話を聞くほうが冷静でいられるかもしれないと、は判断して言った。
「ええっと、三年生は全員――というか、レギュラー陣は、今日、ここにはいなくて――」
 一年生は言葉を濁したけれど、ここにはいないということは、お休みというわけではなく、どこかにはいるらしい。でも明らかに部外者と分かるに対して、答えていいのか迷っている様子だった。大和のことを知らないであろう一年生に、その名を出しても無駄だろう。
「じゃあ、竜崎先生はどちらにいらっしゃいますか?」
 竜崎先生ならのことを覚えていてくれるかもしれないし、そうでなくても、流石に大和のことは忘れていないだろう。それに、手塚の次に、正確な情報を知っているはずだ。
「それが……竜崎先生も、レギュラーと一緒で――」
 ということは、なにかミーティングとか、秘密の練習をしているのかもしれない。これ以上彼らから聞き出すのは無理そうだった。
 でも、ひとつだけ――もう我慢ができずに、は問いかけた。
「あの……手塚くんのケガって――ひどいの?」
「え――? あ、あの……」
 驚いた表情の一年生がそれ以上口を開く前に、の背後から低い声で一括された。
「おい、一年! 部外者にぺらぺら喋ってんじゃねーよ!」
「荒井先輩!」
 一年生が揃えて声を上げた方向へ、も向き直る。そこには、ジャージの色からして二年生の、ヘアバンドをした少年が立っていた。
 どうやらこの場を取り仕切っているのは彼かもしれないと、は挨拶しようとした。
「こんにちは。ぼくは――」
「誰か他校のヤツラに頼まれて偵察しに来たんだろ? それともその制服もうちのじゃなく借りモンか? 見たことない顔だもんな。お前、何組だよ? 言ってみろ!」
「あの――」
 高等部の制服も同じ学生服で――違うのは襟章だけなのだ。シャツ姿のいま、説明の仕様がない。
「あの、ぼくは、ここの生徒じゃなくて――」
「はっ! やっぱりな! スパイは出てけ! 部長のことなんて教えるかよ! 帰れ!」
 ツカツカと歩み寄ってきた荒井に、は突き飛ばすように胸を押された。それほど強い力ではなかったのだが、不意をつかれたはよろめいてしまう。
 倒れる――と思った背中は、抱きとめられいた。
「なにをしている?」
 いつかと同じ――の頭上で、低い声が響く。これは、現実なのだろうか――?
「部長!」
 荒井が、そして一年生たちが、驚いたように慌てて頭を下げている――の背後に。
「どうした、荒井。なにがあった?」
 もう一度響く静かな声――そう、これは……現実らしい。
「えっと、あの…だから、そのそいつが、スパイで――」
「なにを言ってる。――大丈夫ですか?」
 向けられた声に、は恐る恐る顔を上げた。
「あの……手塚くん…?」
 が振り向こうとしているのが分かったらしく、手塚は抱きとめていたを立たせた。そして、正面に向き直ったに、手塚は頭を下げた。
「うちの部員が失礼しました。先輩」
「先輩――!?」
 背後で荒井が声を上げる。
「え、あ、あの……失礼しました!」
 見れば荒井も、そしてつられるように一年生たちも頭を下げている。
「手塚くん! えっと、あの――荒井くんも! いいんだよ、ぼくがちゃんと名乗らなかったのが悪かったんだから――ごめんなさい」
 の言葉に、荒井がほっとしたように顔を上げる。怒れるはずもない。だってこれは彼が青学を――手塚を思ってしたことなのだから。
先輩――今日は、どうしてこちらに?」
「あ……うん」
 手塚を前にすると、やはりいちばん言いたい言葉は出てこなかった。半袖のシャツから覗く左腕のサポーターに、どうしたって目はいってしまうのだけれど。
「ちょっと……祐大に伝言を頼まれたんだ」
「大和部長に?」
 手塚は言葉を切って、眼鏡を押し上げた。嘘だと思われたのだろうか。確かに、これは真実だけれど、すべてではない。
「そうですか、では――場所を変えましょう」
 手塚はそう言って、コートに背を向けた。
「あの――いいの? みんなに、用があって来たんじゃないの?」
 は慌てて声を掛けて手塚を引き止める。
「いえ、彼らには明日言えば済むことですから」
 手塚の言葉に、自分を優先してくれたと素直に喜べなかった。に、明日はないのだ。手塚と毎日会える彼らが羨ましい――そんなことを考えてしまう自分がイヤだ。
(欲張りすぎるよね。いま一緒にいられるだけで充分なんだから――)
「ごめんね、じゃあ」
 が振り返って、立ち尽くしている荒井と一年生たちに挨拶をすると、歩き出していたと思った手塚が隣に立っていた。
「なにをしている? 早く練習に戻れ」
「はい!」
 部長の言葉に駆け足でコートに戻ろうとする三人に、手塚がなおも言葉をかけた。
「荒井! お前はグランド――」
「手塚くん!」
 言いかけた手塚を、は遮った。
「ぼくが悪かったんだから、荒井くんが走るなら、ぼくも走らないと」
 部員たちの怯えと驚きが入り混じる視線のなか、手塚が言ったのは、「練習を続けろ」だけだった。
「行きましょうか」
「うん」
 手塚に導かれるまま、は後を追うように歩き出した。
 揉めごとがあったのに手塚がグランドを走らせなかったのはこれが初めてだと、だけが知らないままだった。