もう一度隣に (中編)


side T

 手塚は、と連れ立って学園内を出た。意識してか無意識か分からないが、は手塚の右側を歩いていた。時折なにか言いたそうな視線を向けられることに気づいていたが、手塚はなにも言わなかった。
 どうしてが中等部まで来たのか――それも昨日の今日というタイミングで。そして普段とは違う、何気なく緊張した面持ち。その意味が分からない手塚ではなかった。を誘ったのも、昨日のことについて、自分の口からはっきり言いたいという思いがなかったわけでもない。
 なのに――いざを目の前にすると、なにも言えなくなってしまうのはなぜだろう。
「そういえば――今日は竜崎先生もレギュラー陣もいなかったんだね。どこか別の場所でミーティングでもしていたの? それとも秘密特訓だったのかな?」
 ふたりの間に少しだけ漂い始めていた重苦しい空気を打破するように、が明るい声でそう言ってきた。
「いえ、ボーリングを。昨日の慰労会のようなものだったのですが」
「ボーリング!? そうなんだ……みんなでそんなこともするんだね――」
 言葉を切ったが、チラリと手塚に視線を向けたのが分かる――それも、左腕のほうに。
「あの――楽しかった、手塚くん?」
 は手塚の腕のことを聞きたいのだ――だからなにか、きっかけになる会話を探している。そこまで気づいていながら、手塚は自分は見学していただけだと明言するのを避けた。
「あまり楽しいといえるようなものではなかったですね」
 先ほど繰り広げられた光景を思い出して、手塚は言った。部員たちのいい刺激になっているから黙認しているが、手塚自身、あの乾の作る液体は歓迎しかねる。
「そうなんだ……じゃあ、ぼくが誘っても断られちゃうのかな? なんて――ぼくも二、三回くらいしかやったことないから、ヘタなんだけど」
「先輩もああいう場所で遊んだりなさるんですね」
「学期の初めにクラスのみんなと、親睦会ってことでやったんだよ。正直、ボーリング自体は面白い遊びだとは思えなかったんだけど、みんなと一緒にやるのは、面白いね。意外な一面が見れたのをきっかけに仲良くなるってこともあったし」
 の言葉に、先ほどの大石の姿を思い出す。大石とは三年目の付き合いになるが、ボーリングが好きだとは知らなかった。そして、あんな面があるとも。
「――そうかもしれませんね」
 手塚の言葉に間があったのをは別の意味で捉えたらしい。
「気乗りしないみたいだね。やっぱり手塚くんは――テニスをしているときがいちばん楽しいのかな?」
 そうです――と、以外の相手に言われたのなら即答していただろう。けれどそれができなかったのは、こうしてと一緒に過ごせる時間も大切に思うからだ。それは、とても比べられるようなものではないというのに。
「――そうですね」
「うん、手塚くんらしい……」
 手塚の答えにはそう返したが、その声は少し悲し気に聞こえたのは、手塚の気のせいか。それともやはり、手塚がケガをしたことを――しばらくテニスができないことを慮っているのか。
 手塚の気のせいではなかったということは、足を止めたの真剣な表情から分かってしまった。
「それでね、手塚くん……祐大から、聞いたんだけど――」
先輩」
 この先に続く決定的な言葉を、手塚は聞きたくなかった。
 昨日の試合に、後悔はない。跡部はなにも卑怯な手段を使ったわけではないし、ひとつの戦略として理解できたからこそ、その挑戦を受けた。全力で戦った――そのことに悔いはない。けれど、最後まで持ち堪えられなかったこと、限界だったこと――その結果として負けてしまったことを悔しく思うのは、また別の話だ。
 負けたあげく肩を痛め――しばらくは治療に専念しなければならない。関東大会にも出場できず、みなにも迷惑をかけるのだ。
 違う――――
 跡部の意図が分かったとき、自分の肩を壊しても構わない覚悟で、持久戦に挑んだのだ。自分がいなくても必ず全国への切符を手に入れられるメンバーだと信じていたから。そのことについて申し訳ない気持ちはあるが、いま抱いている感情とは違う。
「手塚、くん……?」
 不躾に名を呼んで話を遮ったというのに、は心配そうに手塚を覗き込んでいた。
先輩――」
 そうだ――この人の前で、自分が負けてしまったことを認めたくないだけなのだ。
 手塚は真っ直ぐにを見下ろして言った。
「テニスをして頂けませんか――俺と」
「え…?」
 近くにあるの瞳が驚きに見開かれる。
「ぼくで、いいの? もしかして――手塚くんの、冗談…?」
 戸惑っている様子のに、真面目な面持ちで手塚は答えた。
「いえ、本気ですが。付き合ってはもらえないでしょうか?」
 その言葉に、の顔から戸惑いも緊張も消えた。表れたのは、手塚が見とれずにはいられない、あの柔らかい微笑で。
「ぼくでいいなら――喜んで」
 微笑みながら答えたは、手塚のケガが大したことがなかったのだと思ったのかもしれない。騙してしまったようで、少しだけ罪悪感を覚える。けれど手塚には、もう少しだけ踏み出せるきっかけが必要だった。
「では行きましょうか。この先に、ストリートテニス場がありますから」
 を促して、手塚は歩き出した。右肩に掛けたラケットバッグの重みを確認するように、握り締めながら。


 長い階段を上った先にあるコートには数人の人影があったが、プレイ中ではなかった。ナイター設備はあるにはあるが、完全にコートを照らせるほど明るいとはいえず、すでに周囲が薄暗くなってきたいまの時間で引き上げることにしたようだった。
 ちゃんとした試合をするには足りない光量だが、軽い打ち合いをするぐらいなら充分だろう。
「どうぞ」
 ラケットバッグから予備のラケットを一本抜くと、に差し出す。そして、ボールも。
「ありがとう」
 受け取ったは、コート内へ走っていった。
 手塚も一本取り出すと、グリップを握り、その感触を確かめながら、の向かいへ立つ。
 ポン、ポンと、ラケットでボールを弾ませているはとても楽しそうに見えた。
「テニスをするのは、この間以来だよ――」
 ボールをキャッチし、手塚を見ながらそう言ったの楽しげな口調が途切れる。は気づいたのだろう。手塚のラケットが、右手に握られているという事実に。
「いつでもどうぞ」
 動きを止めてしまったに、手塚が口にしたのはそれだけだった。けれどその言葉で、もいまの状況を思い出したようだ。戸惑っている様子は隠せなかったが、何度かボールを弾ませたあと、サーブを打った。
 右手では左手ほどの微妙なコントロールはできないが、ドロップショットなど、いまは打つ必要はない。そのことで一年生時に揉め事を起したことをが知っているかどうかは知らないが、なら、手塚が力を加減するために右手を選んだとは思わないだろう。
 の打ったサービスは少しラインを越えアウトだったが、手塚はの取りやすいコースを選んで打ち返した。
 途切れることなくラリーは続いていたが、の返球にはスピードもなく、集中できていないのが明らかだった。それならばと、手塚は少しだけ球威を上げ、クロスに打ち返す。
 ボールを追い走るの姿が、薄明かりの元、照らし出されている。その瞳が見つめているのは、手塚ではなく、もうボールだけだ。
 打ち続けていくうちに、の返球のスピードが増してきた。
 真っ直ぐな瞳――そう、これが見たかった。
 同じボールを、同じ時間で共有したかった。
 これできっと、再び左手でラケットを握れる日まで、手塚は焦りや苛立ちとは無縁でいられるだろう。後悔はある。不安はある。けれど手塚が追うのは、この日のボールだけになるのだ。
 手塚が思いを込めて真っ直ぐに打ちかえした打球は、のラケットを掠めて飛んで行った。
「ご、めんね……」
 息を切らしながら、はボールを取りに駆けていった。
 ボールを持ってが戻ってきたら本当のことを話そうと、ネットに近づいていった手塚の背後から、呼び止めるような声が掛かったのは、そのときだった。
「ずいぶんと腑抜けた球打ってるじゃねーか。アーン?」
 振り返った先にたたずんでいた男の名を、手塚は静かに呟いていた。
「跡部……」